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2005年07月09日(土) ナラティブセラピストという生き方

昼から東京に来ている。知り合いとまちあわせがあって八重洲の中央口でぶらっと立っていたら、なんと大学院時代の同輩とであった。東京に住んでいるんだからあっても不思議ではないのだが、なんと奇遇な。それも、ものの10-15分のあいだだというのに。ちょうど、oazoの丸善でその人の翻訳した本を買ったところだったからなおさらだ。

金剛出版からでている『臨床心理学』は、森岡せんせの編集でナラティブ特集である。で、今日、ゆっくりと東京の本屋をぶらぶらしていたらそれをみつけたので立ち読みしてみる(購読してないんかいっ!)。その第2回目は高橋先生のナラティブセラピーについての小論であった。高橋先生は、ナラティブセラピストの条件をひとつ挙げるとすれば、それは自分がどのような意味でセラピストなのか考え続けるということにあるというようなことを書かれていた(と、思う)。これはハーレン・アンダーソンの以下の考え方を意識したものだろう。彼女は『会話、言語、そして可能性』のなかで次のようにいっている。

セラピーを人間関係としてみれば,家族やクライエントを構成するメンバーは誰でその人たちとどう関わっているかということと,セラピストとして私たちは誰でその人たちにどう関わっているかということと,同じ問題なのだ。セラピーは私たちの自己物語であって,クライエントが自分を定義し自分のアイデンティティを見つけるように,自分とはいったい誰でどのようなセラピストなのかという問いに応えてゆく物語なのだ。(邦訳 p34)

彼女が言いたいことは、つまり、セラピストというのは具体的な身体をもつ人間のことを指す言葉ではなくて、二者関係のあいだにできたクライエントーセラピストという関係性のなかで結果としてうまれるものだということになる。ひらたくいえば、こういうことだ。つまり、セラピストだから援助できるのではなくて、心理療法において援助的にふるまえているのがセラピストたりえるということだ。

しかし、これはなかなかにしんどい在り方だ。何が援助的であるのか、また、それを誰がどのような意味で「援助的」であるとみなしているのか(それは、もしかしたら治療者だけではないのか)というような疑問には答えがでそうにない。

そういうしんどさは、いままでは理論なり、経験によってつみかさねられた知見なりが肩代わりしてくれていたのだと思う。ナラティブセラピストはそういうしんどさに耐えていくというのが最も身に付けなければならないことなのかもしれない。


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