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2004年12月12日(日) 話してよかったという体験

昨日にひきつづいて書けんの研究会。午前中は会議で午後からオーラルヒストリーの会。

能智先生のご発表は、普通、語ることが前提となっているライフヒストリーにおいて、語れないはずの失語症者たちの語りをどう聞くかということがテーマであった。で、結果としては写真をつかったり、それをもとにしてキーパーソンの語りを聞きとったりすることで、不在の中空としての失語症者の語りを析出しょうという試みというふうに理解した。

能智先生は、その立場には反対されているのだが、ライフストーリーにおいて語られることだけに注目し、沈黙を無駄なものと考える立場があるということには少々驚いた。

そもそも、沈黙というのは単なる音がないという状態ではない。沈黙とは音符でいうところの休符記号のようなもので、なにも演奏しないのではなく、そこには音がないということが即ち演奏になっている。

「あるべきところに、ない」ということでなければ沈黙にはならない。つまり、沈黙というのは、語り手が黙ることだけではなく、そこに「今度話すのはあなたの番ですよ」あるいは「あなたがしゃべってもいいんですよ」ということで語り手が再び語り始めるのをまっている聞き手がいる。このように考えれば、失語症者に沈黙を読み込むという作業は本当はけっこうしんどい。失語症者はしゃべらなくて当然なのだから。

それから、本人の語りがある場合にくらべて、本人の語りが明確にならないときには、聞き手がそこにいろいろなものを補ってしまいがちになる。どこまで本人の志向性を観察可能な指標から読みとれるのかということが大事だと思う。

石井先生のご発表は、沖縄で終戦直後、みよりを失った女性たちが60×90センチという狭いスペースに2やま分のたんものを広げて営業していたという市場で活躍していた女性たちへのききとりであった。

発表とは関係ないようだが、とても大事だと思うこととして、石井先生はとてもよい聞き手だということがある。懇親会でお話したときも「もっと話したくなる」気持ちを僕によびおこす。おそらく石井先生はそんなことを意識しておられないだろうし、別に僕にお世辞をおっしゃっているわけでもないのだろうが、なんとなく話して気分がいいし、話してよかったと思える方というのはいるものである。

沖縄のおばあ達がいきいきとしゃべっている理由がなんとなくわかった気がした。

そういえば石井先生は東北大学の大橋先生の門下生である。大橋先生はつねづね「聞き取りするなら、相手から何かおみやげでももらってこれるくらいでないといけない」とおっしゃる。要するに「話してよかった」と思える体験がないといけないということだろう。その教えが見事に実践されているということかしら。

その後もいろんな人に、いろいろ自分の話をきいてもらって、おかげで停滞していた自分の原稿も少しすすみそうな予感がする。


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