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2004年12月11日(土) すっぽん、社会構成主義、ナラティブ

書けんの研究会。懇親会のすっぽんは案外うまかった。しかし、いきなりふらーっと板前さんがすっぽんの首をひっつかんであらわれたかと思うと、まな板のうえに押さえつけて首を切り落とし、お酒を首のつけね(があったところ)にそそいでいったのにはびっくりした。なんとまあ、見せ場はまったくなんの前ぶれもなく、いきなりやってくるということか。



社会構成主義と、ナラティブ、フィールドワークについて考える。しばしばナラティブ的認識は社会構成主義的認識論だといわれる。フィールドワークもそう言われることが多い。例えば古賀先生のなんかそうだ。

しかし、両者は似て非なるのではないか。以前はあいまいに使っていたが、両者を互換可能なものとして扱ってはならないのではないかと思い始めている。

重要だと思うのは、社会構成主義というと、一般的な世界の認識の仕方について語っているようであり、単なる認識の問題のように思えてしまうのだが、後者は抽象的ではあれ、なんらかの活動・実践に根をおろしたものであるということだ。

ガーゲンの本を読んでいると、社会構成主義が決して相対主義ではないし、現実を「〜にすぎない」などと主張するものでは決してないということが力説されている。しかし、そうはいっても、社会構成主義の主張の強みは現実を相対化することだろうし、実践者に常に省察をせまることにあることには違いがないと思う。とすれば、それは、今あるものが違うということはいえても、そこから何か新しい実践をたちあげるということは直接的には結びつかないのではないだろうか。ガーゲンが単なる相対主義ではないということを力説するときに、もちだす例のひとつひとつはたしかに相対主義におわっている話ではないと思う。しかし、それは社会構成主義に触発されて考案されたその実践がうみだしたことであって、社会構成主義そのものがうみだしたことではない。

つまり社会構成主義的でありながら相対主義にならないのは、全てなんらかの実践にアンカーをもっているからなんだろう。実践をおこない、現実にコミットして、なんらかの現実をつくり−つくりなおそうとする活動があること自体は、この認識論にしたがう人々にとって自明の前提になっているのかもしれない。

ナラティブ的認識論、フィールドワーク的認識論というときも、社会構成主義と似ているようでありながら、「ナラティブにならないものも大切にしよう」といってみたり、「当事者のことを理解する」とか「<出来事>にであう」などと、ともすれば実体化されかねないことをうっかりいってしまうのは、それが単なる認識枠組み(それは<いまーここ>では直接観察できるとは限らない)であるということをこえて、何らかの観察可能な行為にアンカーをもっているということに起因するのだろう。


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