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2004年04月24日(土) ニジュウコウソク

ダブルバインドという言葉がある。

統合失調症の病理にかかわるものとしてグレゴリーベイトソンが提唱したものである。例えば、母親が「あなたのこと好きよ。おいで。」といいつつ手をひろげている。しかし、その手はわが子を受け入れることへの拒否感からかたまってしまっている。このような光景をみた子どもは、母親の胸にとびこんでいくことも、とびこんでいかないという選択もできずに立ち尽くしてしまう。
ダブルバインドはこのような状況をイメージしている。

さて、このダブルバインド状況において、もっとも重要なのは、2つの選択肢があることではない。そうではなく、ダブルバインド状況においてはただ1つの軸しかないかのように思わされてしまうということが問題なのである。すなわち、母親から「逃げるかーとびこむか」という軸である。

しかし、考えてみれば「逃げるかーとびこむか」以外にも選択肢はあるのだ。例えば、母親に「ママ、こっちにきてよ」と手招きすることである。それは通常、思い付きにくいことではあるのだが、たしかにそのように動くことは可能なのだ。

心理臨床の場に相談におとずれる人は、大なり小なりこのダブルバインド状況にまきこまれている。

例えば、不登校の子どもをもった両親が、わが子を「見守る」のがいいのか「学校にいかせる」のが良いのか、どちらにすべきなのかとカウンセラーに相談するという状況はしばしばある。このような場合、両親は「学校にいくか、いかないか」という単一の軸にとらわれてしまっている。2つの選択肢があって悩んでいるようにみえるが、実はたったひとつのことにとらわれていることに気付かないのである。だから、心理臨床家の仕事は、この「とらわれ」を本人が意識できるように援助することであるともいえる。

しかしながら、このようにいうと少し片手落ちである。

単一の見方にとらわれていることが問題を膠着させていることは間違いないが、だからといって、その軸自体をとっぱらったら問題が解決するのだろうか?。そこに「なにも問題などないのだ」としてしまうのもまた問題である。そこにはやはり何かあるのだ。それは言葉にする前には何ものでもありえるような「何か」であり、言葉にした後では、具体的な悩みとして明確化されていく。

心理臨床の場では、この具体的な悩みはいったん「何か」にもどされ、そして新たによりましな具体的な行動へと収束していく。学校にいくかいかないかで八方ふさがりになっていた生徒が、非常に不安定な時期をへて、今度は自分がどう生きたいのかを考えはじめるのはその例である。

「自分がどう生きたいのか」というのもまた、「自分のやりたいことを探さなければならない」という軸にとらわれており、それもまた困難をひきおこすかもしれない。少なくとも八方ふさがりの状況よりはよいというだけである。

してみると、心理臨床家の仕事は、悩みをうみだす「とわわれ」を意識化させると同時に、また別の「とらわれ」へと人を導いていくことであるとも考えられる。

毒をもって毒を征するということである。


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