滅びと復活 - 2006年05月30日(火) 今日の朝刊で「グリーンランドの氷が溶けている」と記事がでていました。 もちろん今に始まったことではないけれど 地球温暖化がいよいよ目だったものになっていることは誰の目にもあきらか。 朝食を食べながらのナナメ読みだったので、正確ではありませんが 「科学者じゃなくても温暖化のことはわかる。極北の地では住民が生活の中で異変を肌で感じている。」というようなことが書いてありました。 それは極北の地じゃなくても、この国にいたってわかる。 ここ数年の気象の変動… 夏の猛暑、ったって子供の頃はここまで暑くなかった。 豪雨、ったってこんなにすさまじい被害をだすほどじゃなかった。 ここ数日の関東、五月晴れもロクになく、もう梅雨に入ってしまったのかしらん? ていうのもそういう一環なのか?と疑ってみたりもします。 そういえばこないだの冬は超寒かったし、東北や北陸では記録的豪雪だったわけだけど、それもそうなのか? キリがない。 生物もそう、こんな花、前から咲いてたかな?ってのも多いし、 夏になって鳴くセミも、確か「シャーシャー」鳴くクマゼミは昔は関西しかいなかったんじゃ?と思うけど、近年は家の周りでも聞けたりする。 「地球シュミレーション」ってやつによれば、あと50年もすれば日本は亜熱帯、 元旦くらいにやっと紅葉がきて、5月には真夏になってそれが10月まで続く、とか言ってたし。 この星が滅んでいく、なんて実感をまさかこんな歳で味わうとは思わなかった。 そんな「宇宙戦艦ヤマト」みたいなこと…。 昨日NHKの「思い出の名演奏」って番組で (あれは1986年か?87年か?) ジュゼッペ・シノーポリ指揮フィルハーモニア管弦楽団の来日公演で演奏した マーラーの「交響曲第2番・復活」をやっていました。 マーラーという人は、若いときから「死」や「滅び」に敏感…というよりとらわれていた人で、そうは名言していないし、表面上はそうは聴こえなくても、いつもそこから逃避するような音楽ばかり書いていることは誰にもよくわかることだと思います。 その逃げ込む場所が「自然」(交響曲第3番)だったり、「天国」(交響曲第4番)だったり。 この「復活」という交響曲も、第1楽章は「葬礼」という曲から発展したものなのですが、 その「葬礼」を書いた後、マーラーはそうした「死」から逃れたくてたまらなかった。 彼は、というか、おおざっぱに言ってベートーヴェン以降の多くの音楽家には 「音楽の中で思考する」 「音による思考の発展が音楽であり、ドラマとなる」 といった考えを持った人が多く、マーラーはその最たる人物でした。 彼は音楽の中で「死」から逃れるためにはどうしたら良いかを模索し、もがいていた。 そこで出会ったのが、当時の大指揮者ハンス・フォン・ビューローの葬式で聞いた クロプシュトックという人のコラール、「よみがえるだろう」という一節。 「甦る」! 「人は甦るために死ぬのだ」! それが彼が見出した光明であり、自分の問いに対するひとつの解答。 そしてそれを終楽章のテキストとし、 「交響曲第2番・復活」が作曲されていきました。 しかし、シノーポリもかつてこれに対して言っていましたが、 この言葉にしがみつくマーラー、 なんだか滑稽…とはいわないまでも、 ちょっと目をそむけたくなるような感じがする。 なんだろう?多分、自分の弱い部分やあまり見たくない部分を、この音楽の中に影のように見てしまうから? 随分久しぶりに見て聴いた、シノーポリの指揮するオーケストラからでてくる響きには (たとえテレビを通じてでも) 「今」の自分の、滅びへの恐れを気づかないわけにはいかない何かがありました。 ...
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