ちょっと休憩 〜現代音楽のガラ・コンサート - 2003年04月25日(金) すいません。 今日はミュンヘンの続きを書くはずだったのですが、旅行記は1回休みにさせていただいて、急遽別のことを書かせて下さい。 いや、今日(昨日か)行ったコンサートがあまりに素晴らしいコンサートで、色んな意味で強烈に感動したんです。 これを書かずに何の音楽馬鹿の日記か!っていうんでどうか許して下さい。 え? 旅行記なんか飽き飽きしてたから丁度いいって? そんなぁー。明日から再開しますんで、そちらもよろしくお願いします。 それで昨晩行ったコンサートは(またクラシックですけど)、ピエール・ブーレーズ指揮グスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラの公演。 東京オペラシティで行われました。 この日はオーケストラの公演といっても、歌手やピアニスト、チェリストなんかの大スターが終結したガラ・コンサートの様相を呈したコンサート。 それも演奏されたのは20世紀の曲ばっかりですから、つまりは近・現代音楽のガラ・コンサート。 色々な意味で感動…と書きましたが、 まずは一音楽好きとして。 まずブーレーズという人は現存する作曲家で現代最高の人で、そして現代最高の指揮者の一人。 そしてグスタフ・マーラー・ユーゲント・オーケストラは18〜26歳のメンバーで、ヨーロッパ各国からオーディションを受けて集められた若いオーケストラ。 ここの出身者はベルリン・フィルやウィーン・フィルのような超名門オーケストラに在籍している人が多く、一流オケの予備校みたいなオケです。 だから若い、といってもメチャクチャ上手い。 まず、そのコンビで演奏されたハンガリーの大作曲家、バルトークの「ディヴェルティメント」。 ブーレーズという指揮者の最も目立つ凄さは、彼が指揮すると魔法のようにそのオケの音が澄み切って全く濁りがなくなる。この曲なんかはヴァイオリンの高い音からコントラバスの重低音まで複雑に絡み合っているのですが、ブーレーズの指揮で絡んでる音が全部クリアーに聞えてくる。 オタマジャクシが汚い水の中に泳いでいたら何にも見えないでしょう? それが、綺麗な水に取り替えたらあ〜らこんなに泳いでいた。って感じになるのです。 それにブーレーズはもとより、オケが上手いからリズムのキレも抜群だし素晴らしく迫力のあるバルトークでした。 次の曲はわが国最高の作曲家、武満徹の「ユーカリプス」 これはウィーン・フィルの首席フルート奏者、ウォルフガング・シュルツと若手最高のオーボエ、フランソワ・ルルー、そして日本の誇る世界最高のハーピスト、吉野直子の演奏。 武満さんの音楽特有のゆったりとした、そして芳醇な時を越えた響きが、こういう名手たちに演奏されるとこうも純粋に響くものか、と。 続いて、指揮しているブーレーズの自作「メサジェスキス」を今、若手チェリストの中でも最高といわれるジャン=ギアン・ケラスとオケの6人のチェリストとの変わった編成で。 ケラスの快刀乱麻というような「これがチェロ!?」というような圧倒的な演奏でした。 ここで休憩。もう胸が一杯でここまでで頭がクラクラしていました。 そして後半。 今度は現代最高のメゾソプラノ、アンネ・ソフィー・フォン・オッターを迎えてラヴェルの歌曲「シェエラザード」。 彼女は声こそいわゆる「酔わせる」声ではないのですが、「目覚めさせる」声、というかブーレーズの指揮するオーケストラの精妙さとあいまって、夜のしじまのような深い静けさから嵐のような激烈さまで夢のような15分。 観客だけではなくオーケストラの団員も足を踏み鳴らし、大歓声のカーテンコールがいつまでも続きました。 最後はフランスのメシアンが日本を訪れた際、インスピレーションを受けて作曲した「7つの俳諧」 今度は現代曲を引いたら右に出る者はない、それどころか今は(実はみんなが単に知らないだけだけど)ベートーヴェンやリストを引いても超一流の、要するに現代最高のピアニストの一人、ピエール=ロラン・エマールが加わります。 エマールはこのメシアンを弾く前にちょっとスピーチしたのですが、私はどうも未だに英語がきちっと聞き取れない。 なんか長々と話していたのですが、要は「メシアンの前に細川俊夫さん(武満さん亡き後、今一番注目されている作曲家)の“俳句”という曲を弾きます。」というものでした。 それも見事だったのですが、やはり圧巻だったのはメシアンの曲。 これも音色の氾濫、複雑なリズムの交錯でかなり聴くのも、演奏するのも難解な「はず」だったのですが、このコンビにかかったら何のその。 エマールはブーレーズの特質をそのままピアノに当てはめたようなピアニストで、どんな早いパッセージ、どんなたくさん同時に音が響いていても決して濁らない。 超美しい音色で完全なバランスを持って響く。そして人間ワザとは思えない超絶技巧。 これってつまることろ、ブーレーズもそうなのですが驚異的な「耳」を持っているということに他ならない。瞬時に響きすべてを分離して捉え、適切なバランスで再構成する耳。 音楽家にとっては最高に羨ましい能力です。 いささか理屈めいた話になりましたが、このメシアンも、それこそ最高の耳のご馳走でした。 エマールは今週末にリサイタルがある、ということなので絶対行くつもりです。 以上これだけ豪華な演奏です。 どれだけお客さんが感激し、興奮の坩堝となったかどうか想像してみて下さい。 音楽にたずさわる仕事をしている者としての感動。 …これが普通のコンサートならよく、でもないけど、まああることです。 しかしこのコンサートは20世紀の曲ばっかり。いわゆる現代音楽のコンサートです。 それがこんなたくさんのお客がこんなに感激して盛りあがっている! 感無量でした。 クラシック好きの人は意識されているか、いないかわからないけど、ほとんど…ほとんどと言っていいでしょうね、コンサートのレパートリーは17世紀から19世紀の作品に限定されています。 これは普通に考えて何かヘン。 まあ、だからクラシックと呼ぶのだ、と言われりゃそれまでなんですが。 でも私達は「今」に生きている。「今」の音楽があんまり聞かれない、って不健康な気がする。 ポピュラーはその点、健康だなって思うのですが。 でもそれは理由が無い訳ではない、ということも分かる。 なぜなら20世紀以降に書かれたクラシックの曲はなにしろ暗く重いものが多い…という以前に調性(キー)がなくなってメロディも消滅して、キコキコ、ガチャガチャ何やってんだか分からない。 私も実は10年ほどくらいまではそう思ってた一人でした。 でも今は声を大にして言います。「それは違う!!!」 そういうのもあるけど「絶対違う!!!」 そう思われるのは実は、良い演奏が少ないから。 それからあまりにもそれまで書かれてきたものと「言葉使い」ならぬ「音言葉使い」が多様化して耳慣れぬものが多くなったから。 そして演奏される機会が少なくて聴く機会が少ないから。 現代の音楽は確かに複雑に書かれている分、演奏が技術的に難しい。 だからよっぽどキチッとした良い演奏でないと曲の良さが耳に届かない。 そして聴く機会が少なければなじまないのは当たり前。 それと音楽は人間の作曲するものである限りは、20世紀という激動の辛い時代を生き抜いた作曲家が書く作品はそれ相応に重い。 それを聴くには、そういう重い現実に直面する勇気がいると思います。 だから現代音楽は「普通のコンサート」で聴くには敬遠されてきた、と思うのです。 「普通のコンサート」?? なぜか現代の音楽は「現代音楽のエキスパート」と自称する演奏家、そして「現代音楽マニア(オタク?)」によって聞かれてきた、という特殊な背景もあります。 確かにそういうところに陥るのもわからなくはない。 しかし、そんな狭いものでは決してない。 それを教えてくれたのはまさに近年のブーレーズの活動であり、それで私は本当に感じ方も考え方も変わってきました。 別に私だけでなく、音楽ファンも一緒のはずです。 それが今日のようなコンサートに結実してきた、と感じられるのです。 最高の演奏が曲の再評価につながり、こんなにお客さんが感動している姿を見るのは音楽馬鹿として、音楽の仕事をする者としては最高の喜びでした!! \(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/ これだけのプランをたて、実行した主催の事務所は素晴らしいな、と思います。 私のトコじゃ、夢はあっても実行力ないし、まずお金ないし。 でもこのスタッフに話を聞いたらちょっと??でした。 だって「こんなコンサートでよく客がはいりましたよね。」とか「いや〜やっててもワケわからんですよ、こんな音楽。」とか言ってたんですよ。 なんなんでしょうね? お客の方がずっと健全に育って先行ってるような気がするのは気のせいでしょうかね。 ...
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