The Green Hills of Earth
Leptonの「基本情報」解体新書 5月10日にleptonさんの4冊目の著書「Leptonの「基本情報」解体新書」が発売となります。 この本でイラストを担当させて貰いました。 イラスト担当者としての「言い訳」は、イラスト担当としてのペンネーム「柴原さとる」で書いているサイト「ペンギンの目」をご笑覧ください。 Leptonさんの既存の著書では、文章の校正を手伝うと言う立場でお手伝いをしてきたのですが、今回ちょっとした一言がイラストでのデビューのきっかけとなりました。世の中には絵を描く事が好きで、それを生業にしたいと願いつつ叶わない人も多いかと思います。そう言う人からはかなり恨まれそうなきっかけではあるのですが、まぁそう言うのもあるから人生はおもしろいって事にしておきましょうよ。 兎に角、今回の仕事で「今の情報処理試験ってとっても難しいのね」と言う事が理解できました。Leptonさんの書いた文章を理解しないと書くべきイラストも浮かんでこない訳ですが、まずは問題とその考え方を理解するのに一苦労して「これはまずいぞ」と思う事もしばしばあったりしたのも事実。イラストを描くより問題を解く事に熱中したりして… 兎にも角にも、この機会を与えてくれた翔泳社「開発の現場」編集部の皆様及びLeptonさんに感謝する次第です。
1983年、体罰など厳しい教育で4人の死亡・行方不明者をだした戸塚ヨットスクールの校長が逮捕されました。2002年最高裁まで争いましたが、戸塚校長は懲役6年の実刑判決となりましたが、その戸塚校長が29日刑期を終え出所し、戸塚ヨットスクールに戻る事になりました。 死者を出した教育方法で実刑判決を受けたのに、また教育の場に戻ると言う事でかなりマスコミは偏見を持って注目しているようです。この戸塚さんは「体罰と暴力は違う」「体罰は教育の一環だ」と公言しているのですが、それがマスコミの気に入らないというか、これを叩けば視聴率が上がると思っているんでしょうね。今朝の日本店れびのゴシップ番組でも戸塚さんは何度も「体罰と言う言葉だけに固執していては話しが見えない」と話しているにもかかわらず、その言葉尻だけを捉えて、「体罰はいけないだろう」という話しをしています。確かに戸塚さんが「体罰」という言葉にこだわり続ける事が悪いという部分もあるかもしれません。が、戸塚さんが「体罰とは必要な時に必要なだけ加える力であって、暴力とは違う」と話し、更に「過去に事故は起こしたが、それ以降戸塚ヨットスクールでは事故は起きていないのに、依然と同じと言う言い方は如何なものか」と話しているのに、番組の三流司会者達はしつこく「体罰とは問題じゃないのか」を繰り返すばかりで、「おまえ達の頭の中身が問題じゃないのか?」とテレビの前で叫んでしまいましたよ。 確かに「体罰」という言葉が与える印象はそんなに良いものではありません。しかし、いくら「フリーター」とか「ホームレス」「援助交際」なんて言葉を使っても、実質は「無職」「浮浪者」「売春」であって本質は何にも変わっていないのに、言葉が柔らかくなったら「自分の置かれた立場は恥ずかしいものじゃないんだ」「悪い事をしている訳じゃないんだ」と誤解してしまうのと同様、教育の出来ていない子供に対して、必要な時に頭や尻を叩いて悪い事を理解させると言う教育を「体罰」以外のどんな言葉に置き換えられるというのでしょう。そして、体罰を全て否定した結果、人の言う事を聞かず、自分の都合しか考えられない獣のような子供がどれだけ蔓延っている事でしょう。私は「体罰」大賛成です。但し、体罰を与える側が自分の感情に左右されたりするような人ではなく、あくまでも理論的に必要とする子供に必要とするだけの罰を与えられると言う事が条件ですが。そう言う事をしなければならないから先生は「聖職者」と呼ばれるのではないでしょうか。今の教育の現場を見ると、子供が何をしても堪え忍び、親が自分の責任を放棄して都合の悪い事は学校の製にする事に堪え忍ぶから聖職者(忍耐の限界に挑む人)ではないのかと思えてしまいます。 私は戸塚ヨットスクールが正しいと思っている訳ではありませんし、応援するつもりもありません。ただ、今の世の中に「体罰が必要だ」と声を大にして言っているこの人の存在はとても大きいものだと私は思います。体罰など無い方が良いのは当然ですが、体罰がなければ物事を理解できない野獣もいます。犬をしつける時に悪いことをしたとき即座に叩いて悪い事をしたと教える事が大切なように、人の形をしたケダモノにも体罰は重要です。全ての人が東大に合格する事が出来ないように、全ての人がイケメン俳優になれないように、全ての人は個性豊かで1人1人が全く違う個体です。そんな体罰を必要としない人も居れば、体罰がなければ理解しない人も居ます。体罰がなければ物事を理解できない底辺の人にとって、理想論を騙る事で切り捨てられる事と、体罰を受ける事で社会の仲間入りが出来る事とどちらが幸せなのでしょう。
NHKの改革案として、現在ラジオ3局、テレビ5局あるチャンネルを削減して、受信料を値下げするべきだという案が竹中総務相の私的懇談会の最終報告に盛り込まれる事になったそうです。 この懇談会では「チャンネル8つは多い」との見解で一致しており、チャンネルを減らせば経費が削減できるとの判断から、チャンネルを減らして経費を削減し受信料を値下げする。その上で不祥事の再発が防げるような改善が出来た時点で義務化を検討するという案のようですが、私にはこんな全く将来を見据えず、今だけ人の目をごまかすような幼稚でありきたりの全く価値のないくだらないおきまりの答えしか出せない懇談会に誰が参加していたのかとても興味のあるところです。 NHKの不祥事は、あくまでもプロデューサが経費を私的に流用したとか、そう言う話しが問題なのであって、まともに作られた番組の経費までがやり玉に挙がるものではないでしょう。また、ラジオもテレビも教育と総合、そして離島に向けた衛星放送などNHKの存在意義を考えた場合、どれも切り捨てる事が出来ないのは子供でも判る事でしょう。それでも無駄だからと言うのなら、誰を切り捨てるのでしょうか。どの日本国民が不公平を享受しなければならなくなるのでしょう。 問題はチェンネルを減らしたり、無差別な経費削減と言うものではなく、不正を確実にチェックできる体制、無駄な経費を抑えるための監視機構の確率という事ではないのでしょうか。例えば東京近郊など都会に住んでいる人にはテレビは民放が5局、NHKが2局、それに衛星放送にデジタル放送にといくらでもありますが、これが離島にでもなると受信できるのはNHKのみと言うことになる訳です。そう言う人達は「そこに住んでいるのが悪いのだ」と切り捨てるべきなのでしょうか。放送技術が上がり、民放も含めて日本のどんな場所でもテレビが普通に見られると言うことになったなら「NHKの使命は終えた」とチャンネルを削減するも、NHK自体を解体するも良いと思います。しかし、そうではなく、NHKしか見られない地域があるのであれば、NHKには存在する義務があるのだと言うことを勘違いしないでおきましょう。
Yahoo!Moviesで月997円で映画が見放題だと言うのを見て、ちょっと興味が湧いて行ってみました。しかし、そこで表示されたのは次のような警告でした。 要はFireFoxで閲覧して居る人は、IEを使って入り直さなければ購入出来ませんと言うことですね。 映画自体は今現時点でも難点か興味のある映画もありますし、随時入れ替えていくと言うことですので、これが月997円で見放題というのであれば、レンタルビデオでレンタルするなら絶対借りないような映画も見る機会もあるでしょうし、レンタルビデオより良いかもしれないとは思っていたのですけれどね。でも、購入するために(ACTIVE Xを使っているからだ都は思いますが)IEを使えと強制するようなプログラムを使っているところに自分は捕まるつもりはありません。一気に興味が失せてしまいました。でも、IEを危険とは思っておらず、映画に興味のある人になら楽しめるプログラムかもしれません。私は一切責任は取れませんが、興味のある方はどうぞ覗いてみて下さい。(因みにFireFoxでもIE Tabのプラグインを導入していれば(当然ながら)、IEと同様に警告無しで購入が出来ます) リンク、引用はご自由に。画像は勝手に持ち出さないことを祈ります。 COPYRIGHT(C) Lunatic 2002-2010 |