The Green Hills of Earth
実は今、実家に向かっている途中です。
サリン事件などを起こしたオウム真理教の教祖について、控訴審の東京高裁は「裁判所の決めた期限までに控訴趣意書を出さず、被告の訴訟能力に問題もない」として弁護側の控訴を棄却し、裁判の手続きを打ち切る旨を決定しました。 これは、先日の山口県光市で妻を強姦し妻子を殺害した未成年犯人の裁判で、裁判を欠席した「死刑反対派」の急先鋒である弁護士が、この裁判でも弁護をしているのですが、本来なら昨年の8月に控訴趣意書を出さなければならないのに、それを「被告には訴訟の雨量はない」と勝手に決めつけ趣意書を出さずにここまで引っ張ってきました。そして最近我が身が不利と見るや「じゃあ控訴趣意書を出すから、改めてスタートしようよ」と一方的な我が儘を通そうとした訳です。が、裁判所側は「そんな我が儘が通るはず無いでしょ」と期限までに提出をしなかったのだから、控訴の意志無しとして打ち切りを決めたという訳ですね。それについて、弁護団は「まず、被告の訴訟能力があるかどうかをはっきりさせる事が重要なのに、それを勝手にありと決めつけているのはおかしい。公開で診察するべきだ」とわめき立てて裁判所が悪いんだと言っているのです。 先日の山口県の事件で欠席をしたという「事件」の時にも書きましたけれど、「死刑反対」という事は決して悪い事ではありません。私は死刑賛成ですが、反対の人もいるからかかるブレーキもあるし、限りなく黒に近いグレーと言うのも何%のグレーまで許されるかは、それらの人が議論をするから左右される訳で、それは有意義な事だと思います。しかし、今現在の規則をねじ曲げて、自分勝手なルールを作って周りをそれに巻き込もうとするのはちょっとやりすぎではないでしょうか。また、先の事件と同じ事を書いてしまいますが、司法の手で殺める事の是非を問う事、人ひとりの命という価値を考える事も大事ですが、その大事な命を弄んだ事への代償という考えも大切だと私は考えます。 誤解しないで欲しいのですが、私は「裁判は被害者の身内の感情を優先すべきだ」とは思っているのではなく、逆に、「犯人を殺してやりたい」と言う感情論は無視すべきだと思っています。 当事者の身内が加害者に復讐を果たすのではなく、第三者機関である裁判所なりの司法が犯人を裁くのは、その「怒りに燃えた感情論」ではないところで罪を裁こうとしているに他ならない訳です。だからこそ、私はマスコミが何かの事件となると身内の感情を逆撫でする事に疑問を覚えるのです。 私が言いたいのは、「殺してやりたい」「死刑は野蛮」などの感情論で犯人の刑を決めるのではなく、その罪を犯した背景がどうだったのかだけが重要だと言う事なのです。例えば家族に暴力を受け、抵抗している内に相手が死んでしまった場合と、対象が苦しんで死んでいくのを見るのが楽しくて、虫から犬猫そして人間にエスカレートしたなんてケースが同じレベルで議論されるべきではないのです。この弁護士が担当したこの松本被告の事件、そして山口県の強姦殺人事件、どちらも自分の快楽のために、他の人の苦しみなど全く考慮せずおこなった余りにも幼稚な思考レベルの許されざる犯罪ではないのでしょうか。「死刑反対」…それを考慮すべき人もいるでしょう。でも考慮する価値のない人も居るのだと私は思います。
SF作家のスタニスワフ・レムさんが逝去されたそうです。 ひとりのSFファンとしてご冥福をお祈りします。合掌… リンク、引用はご自由に。画像は勝手に持ち出さないことを祈ります。 COPYRIGHT(C) Lunatic 2002-2010 |