英語通訳の極道
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2003年05月24日(土) はじめての翻訳

生まれて初めて翻訳をしてお金をもらったのは、アメリカに留学して一年後の夏休みだった、と以前このコラムで書いた。

お金をもらったどころか、実はこの時の翻訳で一年分の生活費を稼ぎ留学を継続できたのだから、一年間翻訳で食っていたと言っても過言ではない。

留学して半年も経った頃、アメリカの大学に残りたいと真剣に考え始めた。アメリカの大学は刺激的で、授業も面白かった。それに比べて、当時の日本の大学は、興味の涌かない授業と理不尽な制度。日本の教育制度には相当失望していた。

しかし、先立つものがない。日本でもらった奨学金は一年だけ。自己資金は限りなくゼロに近い。仕送りなどというものはもらったこともないし、経済的援助をしてくれる家族も知人もいない。ならば、自分で稼ぐしかない。

幸運なことに、学部長の推薦で授業料に相当する奨学金をもらうことができた。これは大きかった。何しろ、授業料は生活費よりも額が大きい。

さて、あと生活費をどうするか。あれこれ探している時に、ひょんなことから翻訳の仕事が転がり込んできた。

あるエージェントが大学に求人依頼をし、それが日本人学生会に来て、私に声がかかったのだ。

エアコンの取扱説明書の英訳で、2週間ほどの仕事という話だった。一年分の生活費を稼ぐには足りないかもしれないが、とりあえず何か仕事があるというのは前進だ。

エージェントに連れて行ってもらったのは、Carrier Corporationという全米最大の空調設備製造会社だった。話を聞くと、日本のさまざまなエアコン製造会社から製品を購入し、分解して分析しているらしい。その取説を英訳して欲しいということだった。

1980年代、アメリカでは日本の自動車が人気で、デトロイトは工場閉鎖とリストラが相次ぎ青息吐息の状態だった。日本車をハンマーで打ち壊す労働者たちの姿がニュースで繰り返し放送されていたのを覚えている人も多いだろう。自動車だけでなく、鉄鋼、家電、カメラ、精密機械など日本製品がアメリカ市場を席巻していた。

Carrierはそんな日本の経済進出が空調設備の分野にも及ぶのを恐れ、まず敵の商品を研究しようとしたのだ。

その彼らのために取説翻訳を担当する私は、アメリカ産業界の対日戦略の先鋒を担ぐことになったわけだ。

最初2週間といっていた仕事は、取説の数が増え、1ヶ月に延び、2ヶ月になり、最終的には夏休み一杯、3ヶ月近くサラリーマンのように車でオフィスに通って翻訳をする生活を続けることになった。

確かその時もらった時給は7ドル少しだったと記憶する。1981年当時の為替レートは1ドル=220〜240円。エージェントが会社から9ドル以上受け取り、3割ほどの手数料を引いて私の口座に振り込んだ。

この手数料のことは最初あまり気にしていなかったが、2週間という話が3ヶ月になってみると、大学に一本電話を入れて私を探し出しクライアントに連れて行っただけのエージェントが、ずっと3割の手数料を取っているのはちょっと高すぎるのではないかと思われた。

翻訳に明け暮れた夏休みが終わってみれば、銀行口座の残高が3500ドル近く増えていた。当時奨学金の手当が一ヶ月550ドルだったことを考えれば、これだけで一年間の生活を支えるのは相当厳しい。

しかし、知り合いにアパートを安く貸してもらい、スーパーマーケットでは肉コーナーを素通りして、ほとんどタダのようなハムの切れ端パックを買い、野菜はキャベツ炒めばかりという生活で月260ドルまで切りつめ、何とか一年間乗り切った。

さて、肝心の翻訳だが、取説はあらゆる会社のものが揃っていた。翻訳することになってはじめて気が付いたのは、取説の多くはあらためてじっくり読むと何を言いたいのか不明瞭な文章が多いということ。日本語で読んでいるときには気にもしなかったが、いざ英語に訳そうとすると意味が分からず頭を抱える。



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の取説。日本語の体裁をなしていない。家電専門メーカーはまだましだった。感心したのは、松下電器。ちゃんと英語の取説もついていた。

初めての翻訳で慣れない技術表現に苦労しながら、研究社の和英中辞典だけを頼りに翻訳を続けていたそんなある日、絶句したまま鉛筆を落としてしまった。

トラブルシューティングのページを訳している時だ。エアコンから聞こえてくるさまざまな「音」に対する対策が記述されている。

ザ、ザ、ザという音がしたら、‥‥をチェックしてください。
ザ、ザ、ザーという音がしたら、‥‥をチェックしてください。
ザザー、ザーという音がしたら、‥‥をチェックしてください。
‥‥

20年以上前の記憶は一語一句正確という訳ではないが、似たような擬音語が延々と続いていたことだけは今でもはっきりと覚えている。

一体これらの音を、英語でどう区別し説明すればいいのか?翻訳者の卵として初めて味わった絶望感だった。


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