今日は午前3時半過ぎに目が醒めた。 やはり、俺は風邪を引いてしまっているのかもしれない。 のどが少しおかしい気がする。 久しぶりに、精神病院に入院中のメッセの子からメールが着ていた。 「Cの兄ちゃんとなっちゃいけない関係しちゃった」との事だった。 聞きたいような聞きたくないような感じだ。 基本的に、メッセの子もC君のお兄ちゃん(E君)も同じようなタイプの可愛らしい少年なので、その二人がお互いにそういう事になった、という話は俺的には全く害を感じないし、欝にもならない。 しかし、E君も今まで薄汚いショタコン共から散々陵辱されてきた男の子だ。 メッセの子の話から、そんな背景が連想されるような事になったら、またとても辛い気持ちになるだろう。
俺は3年前にあの子から誕生祝いに貰ったタイタニックのMIDIを、毎年自分の誕生日にかけていたけど、今年は誕生日当日をゴミに邪魔され実感できなかったせいで、未だにそのMIDIを毎日かけ続けてる。 今日で、このMIDIを流し始めて1ヶ月と3日か。 ずっと同じMIDIを流し続けていたせいか、誕生日からあまり時間が経ってる実感が沸かない。ずっと同じ空間が保たれているような感覚だ。 さすがにキリが無くなってしまうのもどうかと思うので、今日あたりにそろそろこのMIDIを切る事にするか・・・
幼少の頃から、俺は常に誰かの理解を求めてた。 しかし、誰も俺の苦しみなんて理解しちゃくれない。 それが当然なのだろう。 また俺の方でも、自分が誰に理解してもらいたいのか分からなくなってしまった。 あの子が汚い奴に陵辱されていた事を知り、受け入れられなくなってしまって、俺はあの子を失った。 それと同時に、誰かに自分を理解されたいという願望の、「誰か」を指す対象そのものも失った。 以来、俺は誰にも心を開けなくなってしまった。 開きたい、とも感じられなくなってしまった。 それでもたまに、俺は掲示板等に愚痴をこぼしに行ったりする。 大抵の人間は、俺がAという物事について論じているのにも関わらず、勝手に俺が「Bについて論じているのだ」という風に受け取って、それを前提とした返答を返してくる。俺がそれを訂正し「Aについて論じているんだけど」なんて言おうものなら、何故か俺の方がおかしな事を言っているような空気を作られたり。 そんなやり取りにはうんざりだ。 そんなうんざりするような状況を避けるため、少しでもまともな文章理解力のありそうな人間を探し、話かけたりもするのだが。 やはり、相手の淡白さやら軽薄さやらに虫唾が走るような気持ちにさせられ、うんざりしたり。 まあ、『人の言葉を理解する』なんて事は会話において最低限の条件であり、その最低限を満たせない人間が殆どな環境では、それ以上望むべくも無いのかもしれないが。 他人と会話を交わす事で、自身の精神レベルが引き上げられるみたいな理屈?もあるみたいだが。 俺の場合、どれだけ理知的だとされる人間が相手だろうが、会話の後は必ず決まって、逆に自分の精神レベルが大幅に引き下げられてしまっている事を実感する。 他人と会話を交わす事で、俺自身の価値観が、多くの人間が盾に掲げる『意味を持たない現実的思考』に侵されるんだろうな。 要するに、少し考えれば容易に理解出来るような概念を、『ソノ言葉ハ定義サレテイナイノデ理解デキマセン。インプットシ直シテ下サイ。ピーピーピー』といった風に、古い映画に出てくるようなコンピュータよろしく。 馬鹿げた事に、そんな感じのロボット人間として振舞う事が社会的には優秀とされ、皆がこぞってそのルール?に則ろうとする。 また、そのロボット人間はバグだらけで、正しく入力した単語でさえも履き違えて分解するから性質が悪い。 そんな、みみっちくて稚拙な概念を主体に据える人間が殆どなのか、それらに対峙する俺自身の精神までが歪に崩れてしまうのだ。 相手の持つそれらの意識を取り除かない事にはまず話にならないので、相手の持つみみっちさや軽薄さ、を打破するための指摘文句を捻り出そうとするのだが、結局前説というか、それらの指摘に全神経を注ぎ続ける事に終始して、最終的な主題というか、肝心な事がおざなりなまま議論する気も失せてしまう。 「○○と闘う者は、その過程で自らが○○と化さぬよう心せよ」という理屈そのまんま。 もっとも、仮に自分の論ずる事の意図が伝わり、結果的に他人の理解を得られたところで、その人間は俺にとっての「理解を求めたい対象」から外れた存在でしか無いだろうし、結局俺の中で何の意味も持たなかったり。 ベッドに横になりながら、風邪でぼんやりとした頭で、そんな事を考えていて虚しくなった。 現在午後16時42分。
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