江戸の敵 - 2002年01月28日(月) 古今東西いろいろなことわざがあるが、語源になっている事柄を身を持って体験して、深く頷いて納得することがある。 「岡目(傍目)八目=おかめはちもく」 囲碁から生まれたことわざである。 対局を観戦することを「岡目(傍目)」と言い、自分が対局しているときより八目は上手に見える(手が読める)ということから、局外にあって見ていると、物事の是非、利・不利が明らかにわかるという意味に転じた。 実際、碁を打ってみると、まったくその通り、他人の打っている碁では気がつくことも、自分が打っている時にはわからない。 そして、プロの対局では「半目」の差で勝負がつくことも多いことを知り、あらためて「八目」という差がいかに重大かということを知ったのだった。 一方、意味も語源もあやふやだが、好きなことわざというのもある。 「江戸の敵を長崎で討つ」 ズルくて筋違いで理不尽な香りが漂いつつ、どこかしら「ザマーミロ」な感じが、なんとなく好きなのだ。 そこで、なんとなく好きの謎に迫るべく、意味を調べてみた。 ...意外な所で、また筋違いなことで、昔のうらみをはらす。 ...執念深いことのたとえ。 ...一説に、「江戸の敵を長崎が討つ」。 これは文政の頃、江戸に大阪の芸人がやって来て、その興行が大ウケ、江戸の芸人は商売上がったりになってしまった。 しかしその後、長崎から来た芸人の芸が評判を呼び、大阪人気は長くは続かなかったという出来事に由来するらしい。 いやはや、「で」と「が」では大違いだが、正規の敵討ちと違うかたちで溜飲を下げるという意味では共通している。 正直なところ、江戸で起きた事件なら、江戸市中でけりをつけたいだろう。 飛行機も新幹線もない時代なら、敵に箱根の山を越えられてはなるまい。 それに、江戸が大阪にやられたのなら、江戸がやりかえすのが筋である。 助太刀を頼むにしても、せいぜいが神奈川か埼玉だろう、いくらなんでも長崎は遠すぎる。 しかし、筋書き通りに事が運ばないのが世の常だ。 その場できっちり落とし前がつくことの方が稀なのである。 だから長崎はすごい。 「で」だろうが「が」だろうが、ヤな奴がへこめばオッケー。 時空を超える宿願成就、長崎万歳! である。 そう、時空を超えるのがミソかもしれない。 私が好きなのは、江戸と長崎の間に横たわる距離と時間のような気がする。 自分の性格が、落とし前にこだわる融通のきかないタイプだからかもしれないが、「長崎」の存在は有り難い。 この場でぎちぎちに煮詰まらなくても「長崎」があるんだ、と思うことで息がつける。 時間と空間の猶予をもらった気分になるのだ。 長崎は遠い。 熱海あたりで途中下車して温泉に入るのはどうだろう。 焼津の黒はんぺんは娘の好物だし、天気が良ければ富士山も見えるかもしれない。 名古屋駅の新幹線ホームで立ち食いのきしめんを食べるのもいいな。 この季節、関が原の雪で徐行するのも嫌いじゃない。 ひさしぶりに、青々とした九条ネギが山盛りの京都のラーメンも食べたいし、神戸の港の匂いも懐かしい。 広島の原爆資料館に行ったのは三歳の時だった。ショックだった。 今訪れたらどういうふうに見えるのだろう。 それに、今度こそ、本場広島のお好み焼を食べてみなくちゃ。 小倉の「はるや」はまだあるかな? 「はるや」でかやくうどんを食べて、銀天街をぶらぶらして、ロイヤルでアイスクリームを食べるんだ。 そして長崎。 大波止の近くの小さな店で、ちゃんぽんを注文する頃には、敵が誰だったか、何があったのかもすっかり忘れていそうな気がする。 あれれ? もしかして、私が好きなのって、江戸と長崎の間にある「食べ物」だったりして? ま、いっか。 こんなことわざが好きだっていうことは、人生負けがこんでる証拠だろうし、せいぜい栄養をつけて、空手の練習でもしていよう。 いつの日か、江戸の敵(誰?)に「かかと落とし」だ!(たぶん違う) ...
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