ゆりあの闘病日記〜PD発症から現在まで〜

 

 

重責 - 2003年02月04日(火)

実際のところ、私のように厄介な会社員はいなかった。年休が毎年足りなくなって欠勤扱いで休む。突然体調が悪くなるので、唐突に休む。持って生まれた営業テクニックと、常に社内外と連絡が取れる状態にすることで、誤魔化しながら仕事を続けていた。
売上は持ってくるが会社員としては失格というレッテル。いつ辞めさせられても文句は言えない。そんな私を置いてくれるだけでもありがたいのだから、出世など望むべくもない。偉くなっていく友人達を横目に、こつこつと売上だけで勤務態度をカバーする日々だった。

しかし出世が足踏みしてから8年が経過し、そろそろ大きな仕事を成し遂げなければ完全に組織で外道になってしまう状況にあった。そんな時、競合会社N社の最大クライアントO社を攻めるに際し、その営業担当に任命された。年間2億円の販売を奪い取ると同時に、N社の屋台骨を叩き潰すという熾烈な戦いの特攻仕事である。これまでもN社顧客を奪取してきた実績が買われたのだが、これほど大きな額を逆転したことはなかった。
市場の完全制覇は、会社としての絶対的な使命である。逃げられないと同時に、これさえ完璧にやり遂げれば停滞している自分が変化するきっかけにもなる。私はこの仕事に1年を費やす覚悟を決めた。

この仕事を請ければ精神的にも肉体的にも激しい消耗は免れない。もちろん文章など書く時間はなくなる。それ以外の趣味嗜好に走る時間もそれほど取れない。でもたった1年間だ。どちらに転んでも1年後に答えは出る。いつまでも安穏と立ち止まっているわけにはいかない。
初めて発作を起こしてから10年近い時間が経っている。一進一退を繰り返す体調。だからといって長く甘え過ぎた。ロングバケーションは終わったのだ。精神的にばかりではなく、社会的にも前に進む時期に差し掛かった。社会とのかかわりを断って生きられる程、裕福でもないし強くもないのだから。

最近は動悸以外の発作症状が出る回数も減った。そこで市川先生にお願いして、抗鬱剤を増やして安定剤を減らすことにした。抗鬱剤で症状改善を急ぎ、また安定剤の副作用を出来るだけ抑え、仕事への影響が極力少なくなるよう薬を組み合わせた。
先生はパニック障害はもちろんのこと、心臓の方を気にしてくださり、半年に1度の精密検査の受診を約束させられた。実際には検査に行く暇など取れなくなる。でもこれは戦いだ。私が会社の一員としてやっていけるかどうか、自立した生活を続けられるかどうかの瀬戸際の攻防。これまで12年間で培ってきた実力のすべてを賭けて、この重責を全うしようと心に誓った。

些細なミスも許されない。神経を研ぎ澄まし、細心の注意を払いながら仕事に手をつけた。しかし始めてみると、周囲が騒ぐ程大変な業務ではなかった。寧ろメンバーのぬるさ加減が我慢ならなかった。たったこれだけのことで大勢のいいオトナが何をつまずいているんだろう?手をつけた傍から仕事は片付いていった。企画書を提出し、プレゼンテーションを行い、コンペに勝ち、講演会を開き、商品を定着させる。
指摘されるまで気が付かなかったが、ボーっとしていた9年間、私は知らず知らずのうちに以前より実力をつけていたらしい。自分の中の水準がいつの間にか上がっていたのだ。結果、仕事は大成功を収めて私の成績評価は突然良化した。周囲の扱いもすっかり変わった。これまで白い目で私を見ていた人達から褒め言葉をいただいた。以前から認めてくれていた人達は心から「よかったね」と言ってくれた。

環境が変わったことへの驚きもあったが、自分が心から楽しんで仕事をしていることに気が付いたことが大きかった。これまでも仕事は大好きだったけれど、必要以上に私を仕事へと駆り立てていた恨みがましい気持ちや苦しみを紛らわす気持ち、復讐心はもはや存在しなかった。
時間という神秘の奇跡を侮ってはならない。苦しんだ時も荒れた日々も頑張ってきた自分も、決して無駄にはなっていなかったのだ。

処方薬:スカルナーゼ、デパス、パキシル、ロヒプノール

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