ゆりあの闘病日記〜PD発症から現在まで〜

 

 

- 2002年10月30日(水)

新しい知り合いが出来て、少し世界が広がって、私の神経状態はいくらか回復したようだった。ただ、薬を弱めると動悸の発作が起こる。強くしても内臓的な動悸が起こる。常に危ういバランスの上にあることに変わりはなかった。
クライアントの前では決して発作が起きないのに会社や通勤途中では起こるのと同じ。要は気を遣う人々との交流には緊張感があるので、気が張っているから神経の調子が狂わないのだ。
市川先生も薬の組み合わせを迷っているようだった。次々に様々なパターンの組み合わせで2週間ずつ試す。この連続。仕事をしながら病院の診療時間内にしばしば通うのは、実は結構大変なことである。営業という職務を利用しながら、何とか時間を見つけて病院に通っていた。ただ、どうしても時間が作れずに薬がなくなってしまうこともある。そうすると完全に薬切れによるパニック発作を起こしてしまう。

今では社会人の5人に1人は神経を病んでいると言われている。経験者なら誰でも分かることだが、薬は定められた時間にきちんと飲むことが回復への最短の道である。具合が悪い時に慌てて飲んでいても決して良化しない。しかし人間とは何事も都合よく行動しまうもので、ちょっと調子が良い時間が続くと、服用自体を忘れてしまう。そして苦しくなって初めて薬のことを思い出すのだ。そんなことではいつまでたっても治らないというのに。
ただでさえずぼらな性格の上に時に意識が朦朧とする症状が重なって、定刻に適薬を服用するという簡単なことさえ上手くできずにいた。丁度その頃に夫が12年勤務した大手ゼネコンを辞め測量会社に転職した。同じ経理職とはいえ新しい職場環境に馴染めず、それまで彼がずっと飲んでいた安定剤が効かなくなってきたようだった。次第に夜中まで酒を飲んで荒れる回数が増えた。振り回されて睡眠不足の身体を痛めつけるように、私は文章を綴ることに神経を集中するようになっていた。

生まれて初めて顔を合わせる前に交流していた方々との直接交流も出来た。率直な感想は、みんな良い人だなってこと。心の中がどんなに乱れたり暴れたりしてても、笑顔で初対面の人間と接することができる。当たり前のようで当たり前でないこと。それは本当に嬉しいこと。幸せなこと。貴重な経験をさせていただいた。
呑気な私だから、場が緊張してギクシャクすることについていけないと感じることもあった。人はそれぞれ意見が違う。それが当たり前。ただ意見の違いを認められない人も世の中には結構いることを思い知った。「私は人の話を聞いている」「私は平等だ」という人に限って絶対に自分の意見に固執するのは、ネット世界だろうと現実世界だろうと同じこと。やっぱり自分はどこか冷めてるんだなって感じていた。
私はそもそも真面目な人間ではない。みんなが真面目だからこそ意見の食い違いが生まれる。根無し草人間にはありえない真摯な態度。ある意味羨ましくもあった。世間の垢にまみれ、罪深い人間として尚この世に存在している醜く勝手な自分を省みて。

文章と脚本とは根本的に違う。そういう意味では文章を綴るなんて学生時代の作文以来だった。創作だけでなく、会社の広報誌に強制的に寄稿させられる随想を書くことすらストレスの発散になった。ネット掲示板という公共の場に書くものについても、本来なら一番気を遣うべき読む人の気持ちなど殆ど考えなかった。完全な自己満足の文章を不快に感じた人もたくさんいたことだろう。
職業的時間的質的な問題から、そんなに多くのものを書くことは出来なかった。でも書かずにはいられなかった。自分自身の醜い部分、汚い部分から目を逸らしたくなかったし、書くという快楽であり苦痛である作業を通して、この眩暈がするような現実の捌け口にしていたのかもしれない。長い年月心の奥に閉じ込めていたものを吐き出すように、身を削ってひたすらに文章を書くことに没頭していた。

処方薬:メイラックス、デパス、リーゼ、ロヒプノール

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