ゆりあの闘病日記〜PD発症から現在まで〜

 

 

原因−後天的要素 - 1995年09月24日(日)

1991年に今の会社に入社した。バブル時代だったから、たった1000人の会社で新入社員が63人もいた。
今思えば、あの頃の私は女王様だった。世界は自分を中心に回っているのではないかと、時々恐ろしくなるほどだった。遊びに行こうと言い出すのも、飲み会をやろうと言い出すのも、誰よりも仕事をこなすのも、新人の中ではいつも私。私が一言希望を口にすると、誰かがいつの間にかすべてセッティングしてくれていた。先輩や上司にも可愛がってもらっていたと思う。

もちろん集団でしか行動できない「典型的女の子」軍団とは仲が悪かった。特にその中心にいる子が好きな男の子と私が仲がいいのが気に入らなかったらしい。私にとっては男も女もない。みんな同期の仲間としか思っていなかった。ちなみにその男の子(今は昇進して「上司」である...笑)とは今でもとても仲良しだ。その女の子集団に意地悪をされたらしいのだが、私はそれに全く気付かず、親友のレミコに言われて初めて「そうだったの?」とか言って笑ってる大ボケだった。(その彼女とは今でも同じ部で仲良しとはいえないが表面上温厚な関係を保っている...笑)

そんな私に「彼氏」が出来たのは1992年の終わり。会社のギャンブル仲間の1人で年齢は私と同じだが、1期後輩の男の子だった。きっかけはよく覚えていない。気がついたらそういうことになっていた。私の好みとは全く違うけど、顔立ちの整った、頭のいい子だった。
お互いの自由を尊重しながら楽しく過ごしていた日々が急変したのは、付き合い始めて半年ちょっと経った頃だった。私が妊娠したのだ。彼は平然とした顔で私を説得した。まだ仕事でも半人前だし早過ぎる、と。嫌われたくない一心で、私は彼の指示に従って一人で病院に行った。

麻酔が切れて目が覚めた時、全身がずっしりと重かった。迎えは来ないと先生に伝えると、驚いた女医が少しでも休んでいきなさい、と言ってくれた。そして1週間は絶対に安静にしなさい、とも。でも甘えてるわけにはいかなかった。明日もまた山のように仕事がある。私を待ってくれているお客様がいる。家が近いと嘘をついて、私は病院を後にした。

残暑の太陽がアスファルトに照り付けていた。一歩ずつ足を前に出す。ふらついて思うように歩けない。世界がグルグルと回っていた。もう立っているのも辛くなって、両手をついて四つん這いになって進んだ。早くタクシーを拾えるところまで行かなくては。暑い。熱い。意識が薄れていく。
気がつくと自分の部屋で寝ていた。その間のことは覚えていない。その頃からしばしば記憶が抜け落ちるようになった。もちろん翌日も朝から外回り。休んでいる暇も傷ついている暇もなかった。

二度目の妊娠に気がついたのは、それからちょうど半年後。前と同じ理由で同じ対処をするように言われた。私は何度も独りでやっていけるかを考えた。どうしても無理だ。前回同様、家族にも友人にも相談などできるはずはない。そういうキャラじゃない。今回は前回とは別の病院に行った。前の女医さんにあわせる顔がなかった。

手術は、一言で言えば失敗だった。その後1ヶ月間、出血が止まらなかった。もちろん仕事も1日も休めなかった。保険の効かない治療を散々積み重ねた後に、もう妊娠は出来ないと言われて終わりだった。子宮と卵巣を痛めたのだ。そのことで私はかなり錯乱した。会社で正常を保つ反動が私生活に表れた。そんな私に愛想を尽かした彼は、自由の名のもとに以前から二股をかけていた女の子の元へと走った。そしてすべてを失ってすべては終わった。自殺を図るほど馬鹿じゃない。自分の犯した罪の償いと、相手への復讐心のみで精神を保っていた。どうして相手は平気で私だけこんな目に合うの?相手の女の子はどうしてそんな勝ち誇ったように私に意地悪をするの?本気でそう思っていた。よくある陳腐な話だというのに。悲劇の女王気取りもいいところだ。
(そんな彼も今は昇進して友人の子と同じく「上司」である...笑)

それがちょうどパニック発作を起こす1年ほど前の出来事だった。

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