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今年の甲子園に義足の選手が出ているそうである。日経の夕刊の記事で読んだ。普段の練習も健常の選手と同じようにこなし、実力もトップクラスなのだという。当然反響は大きく、「希望を持てた」という便りなども届くらしい。それに対して彼は、「同じような境遇の人に何かを感じてもらえたらいいけど、そのためにやっているわけじゃない。(野球が)好きなんです。」と話したと言う。野球をやっているのは何かを克服するためでも、人にがんばる姿を見せるためでもなく、ただ自分が好きだからやっているのだ。この当たり前の答えを私はすごく気に入った。「そうでなくちゃ!」と思った。 「障害のある人だってこんなにがんばってるんだから…」とか「勇気をありがとう」とかいう論調が私は好きになれない。好きになれないというよりは大嫌いだ。某局の24時間テレビでタレントが走る。「こんな私が走ることでみんなが勇気をもつことができたら…」なんて言いながら「人のために」走って、なぜか終了時間ぎりぎりに感動のゴールを果たす。この人たちは芸能活動の一環として走るわけだから、これをみて感動する人は大いに感動すればよろしい。 しかし、障害を乗り越え何かに挑戦する人を番組内で取り上げ、障害のある人でもこれだけできるのだから、(健常者である)我々はもっとがんばらないと、とかいって感動の涙を流したりするのはいただけない。勝手な解釈を加えてそれを押し付ける、何様のつもりかと思う。誰かの生き方を見て感動したり発奮したり自らを省みたりするのは勝手だが、障害のある人は他者を感動させるために何かに取り組んでいるわけじゃない。自分のためにやる。自分が楽しいからやる。それでいいじゃないかと思う。
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