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今月の日経新聞の「私の履歴書」は、ノーベル物理学賞の小柴さんの連載で、毎日楽しみに読んでいる。小柴さんといえば受賞報道の中で東大では成績はびりだったというエピソードが、田中さんが学位を持っていなかったこととともに大きく取り上げられて、世の中の学歴コンプレックスの人々が勝手に大いに勇気付けられたことが記憶にあたらしい。びりといっても東大のびりである。格が違うだろう、と思っていたのだが、連載を読んでいると、月並みな言い方だが、やはり本当に頭のよさが違う。 一億総中流意識の現在と違って大学進学率が低いあの頃の、旧制一高→東大というエリートコースは、まさに選りすぐりなのである。全寮制の旧制高校という環境もすばらしい。小柴さんは「のどかな時代だった」となんのてらいもなく述べているが、全国から集まった秀才たちが、夜を徹して馬鹿騒ぎをしたり、哲学や文学について議論を戦わせたりしながら数年間を過ごす。そこで名前の挙がる人々は、その後東大のそれぞれの専攻に分かれて、やがて各界の第一線にのしていく。綺羅星のごとく、ため息の出るような交友関係なのである。青春時代の濃厚にすごした友情は生涯続き、日本の高度成長を影の結束で支えてきたということがわかる。 今は大学進学率も非常に高く、学問のチャンスが多くの人々に与えられている。全体的な学力は上がり、識字率も世界各国に比べて驚異的な高さである。しかし小柴さんたちの世代は、今の粗製濫造の大卒エリートとはレベルも鍛え方も違う。国を造るのが人材にかかっているとすると、「人間くさい超エリート」がいない日本の国はこの先昔のようには行かないだろうなぁという気がする。
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