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今日は東京地方よいお天気。 お客人とともに近所のお寺を巡った後、拙宅でお茶など。夕方頃お客人を見送った後、どうも気分が落ち込んで来たので飲むことにする。近所のコンビニで適当に白ワインとチーズを買ってきて、照明をあれこれ工夫してとことん飲む雰囲気。今はとりあえず小休止。 落ち込んでいる一つの理由は例のIT講習会らしい。と書くと斡旋してくれたようこさんが心配してしまうが、念のため申し添えておくとIT講習会そのものが落ち込む原因なのではない。ただ、その背後に潜むものに思いをはせると、なんとなく割り切れないものを感じてしまうのである。教える仕事は好きだし、最初あまり使えなかった人が少しずつでも使えるようになっていくのを見るのはやはりうれしい。それでもどうしても救いきれない人はいる。1回目に参加した79歳の女性は2回目には姿を見せなかった。もう自分にはついていけないと思ったのか、あるいは補助講師が彼女につきっきりだったのに遠慮したのか、病気だったのかなにか用事ができたのか、理由はわからないが1回目に人一倍熱心にノートを取りながら話を聞いてくれただけに、彼女が来ないのはやはり寂しく悲しい。 昨日の講習の帰りに、実家に寄って母にそのことを話す。それからふと、その女性はパソコンを使えるようになりたかったわけではなく、ただITって?パソコンって?という興味から参加しただけだはないか、と思いついてみた。それなら1回目にパソコンの現物を見て触って、それでもう自分は満足だと思って帰ったのかもしれない。そう母に話すと、母は「それにその人は一人で暮らしているのかもしれないわね。」といった。つまり(パソコンを持っているような)同居家族がいないのかもしれないということだ。ああ、それなら独居老人こそITの恩恵を受けて欲しい。話し相手がいなくて、しかも身体の自由が利かなくなったときにこそ、ネットを使って外界との接触を保って欲しい。せっかくそういう興味をもって参加してくれた彼女に、私はその可能性を示すどころか興味の芽をつんでしまったのではないか、そんな気がしてしまう。もし彼女が自分の進度を気にして遠慮してしまったのなら悲しすぎる。 水辺に馬をつれていくことは出来ても馬に水を飲ませることはできない、とはよく言われることである。だからいくら講師が頑張ってもその先に踏み込むことはできない。受講生のマジョリティが満足する内容を講習できれば講師はそれでいいのかもしれない。でも、もし私ではない講師にあたっていたら、もしかしたらもう少しハッピーにパソコンを触れる人がいたのかもしれないと、ちりちりと考え込んでしまう。
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