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世の中「駄洒落=親父ギャグ=下らない」と、とかく忌み嫌われがちなのだが、果たして駄洒落ってそんなに悪いものなんだろうか?私自身はあまり駄洒落をいう方ではないが、駄洒落そのものは好きだと思う。 洒落と駄洒落とがあって小田島雄志のシェイクスピアの訳なんかで出てくるのは高尚な洒落なのだとすると、なるほどそれらはとても周到に仕立て上げられた「言葉遊び」なんだろうけれど、私にとっては飾りたてられた「言葉いじり」のようで、あまり価値がなく思えてしまう。それよりもむしろ「駄」がついていても突飛で荒削りな方が即妙性があって面白く感じる。何よりそこであえて駄洒落を言おうとする心意気、その時その人の中で電球にぱっと明かりがともるような回路のつながりがあるのが好きだ。 他人が言った駄洒落を、ふん下らない、と見下すような人は実際は自分で思いつかないか、その価値が見出せない人じゃなかろうか、と思う。あまた多くの言語から一見なんの関連もないような二つの言葉を「似ている」という観点から拾い出して結びつけるのは人間の思考回路の妙である。「似ている」という判断にはさまざまな切り口があって、例えば文字面が似ている、子音の組み合わせが似ている、母音のつながりが似ている、なんだか似ている、など、これをコンピュータにやらせようとすると、膨大な辞書に登録して規則を入れて、類似度をだして…、大変な手間である。しかもそれが人間の気に入るという保証はない。特に「なんだか似ている」のような直感的なものはお手上げである。 こんなことを考えるのは最近読み耽っている「ほぼ日」の「ガンジーさん。」http://www.1101.com/ganji_san/index.htmlのせいだろうか、と思う。ガンジーさんとはインドのガンジーさんではなく「癌爺さん」で、文字通り癌患者(66歳男性)なのだが医者に宣告された余命を通り過ぎて、今なお快調に連載を続けているなんともはや、の人である。で、この人の駄洒落がすごい。駄洒落を真剣に考えてひねくりだしているところがすごい。気合が入っている。「言葉」に対する好奇心のアンテナがびんびん張り巡らされているんだろうなぁ、という気がする。それは時に言葉あやつりのプロである糸井重里氏を感じ入らせるほどである。 ちなみに今日の「ガンジーさん。」への糸井重里氏のコメント: >『退屈の靴なんか履くなよ』って、 >車寅次郎が言いそうなセリフだねぇ。 >『どうせ履くなら、たまげたって下駄を履きな』と、 >返しておきましょうかね。 なんかすごい。やっぱりこの人は相当な目利きだ。
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