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「手をあげて 横断歩道を 渡りましょう。」という標語がある。子供の頃、いつも見ていた番組で「手をあげて 横断歩道を 渡りましょう、松崎まことでございます」と言い続けた座布団運びが表彰されるほど、ポピュラーな標語だった。 子供は小さいので、せめて手をあげて目立たせようということだったのか、「手をあげる」ことは「渡りたい」意志表示としてちゃんと認められていて、信号のない横断歩道でもそれなりに効果があった。 そのうち交通量が増えて、青信号で渡っていても左折の車が突っ込んで来るようになった。ヘタに手などあげたら空車のタクシーに期待させるだけである。もちろん信号のない横断歩道は、目的のない単なるシマシマと化してしまった。 今住んでいるところは交通量は決して多くないが、やはり横断歩道は単なるシマシマである。まず人も車も少ない。(それなのになぜ、交通事故が多いのだ、石川県人よ。) 車は「どうせ人はいないだろう」と思い、 人は「どうせ車は来ないだろう」と思っている。 お互いの思惑が一致した結果、車は横断歩道をすっとばし、人は渡りたいと思ったところで渡るのである。 一方、地元の小学生は横断歩道でじっと待つ。車が止まるのを待つわけではない。車が通り過ぎるのを、待つ。これも生活の知恵なのか、それとも学校でそう習ったのか、横断歩道の手前で車が止まっても渡ろうとしない。 頑なである。 この辺りで、「手をあげる」行為は「横断歩道を渡る」という行為と結びつかない。 もちろん「手をあげる」行為は「タクシーを止める」という行為とも結びつかない。この辺りでは、タクシーとは電話で呼ぶものだからである。
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