「野球でヒットを打つ」これを「生きる」と置き換えよう。
そう置き換えると、 「自分は何故生きているか?」 は、「自分は何故ヒットを打っているのか?」 「生きているとは、どういうことか?」 は、「ヒットを打つとはどういうことか?」 という質問に転ずる事になる。
この置き換えられた2つの質問は、いつもヒットが打てない人達か、または、 ヒットは打てているが、打つ方法が解っていなくて、スキルを身に付けていない人達、 がする質問である。
スキルで意識的にヒットを打てる人達や、意識的にスキルを磨こうとしている人は、 それらの質問がヒットを打つ事に何も意味をなさない事は解っている。 「自分は何故ヒットを打っているのか?」「ヒットを打つとはどういうことか?」 という事を自問自答するだけで、ヒットが打てるようになるはずはない。 そんなことを考えても絶対にヒットを打つことは出来ないし、スキルは一向に身につかない。
それでも「自分は何故ヒットを打っているのか?」「ヒットを打つとはどういうことか?」 という質問にこだわる人には、 「現実がヒットであるから」、「アウトにならないこと」と言ってやればいい。 でも、それでも納得しない人も多数存在するだろう。 「もっともっと凄い答えがあるはずだ」と抵抗する。 もう、そんな人は死んでしまえ。意味を素直にとりなさい。 「頭の回線が違うふうに繋がってる。もう駄目だ。お手上げ」。そんな感じ。
ヒットを打つために考えねばならないことはそれはまさしく、 「如何にヒットを打つか?」である。 これを考えていないやつは絶対にスキルが身につかないし、うまくならない。 でも、そんなことを考えてなくてもどんどんうまくなってヒットを打てる人もいる。 (日本のけっこう多くの人はそうだと思う。僕の勝手な予想。かなり勝手)
そんな人は言う 「『如何にヒットを打つか?』なんていらないよ。要はヒットが打てればいいんだよ」 確かにそうである。でもそれでは困ることがある。 それは何か?なんであろうか? ・・・続く
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