昨日・今日・明日
壱カ月昨日明日


2006年08月19日(土) 8月4日から10日までについて、とりあえず

8月4日(金)
昨日、読みきれなかったフランシス・キング『家畜』を、帰りに寄ったドトールで読了した。なかなか興味深かった。とにかく、アントニオへの想いに苦しむ主人公の懊悩ぶりが、理解できすぎて心がヒリヒリする。例えば、

『一方、アントニオに対する情愛を隠しきれず、また飽くことなくそれを表現する方途を探っていた私は、結局要らぬお節介を焼いて、彼をうんざりさせたり立腹させることになった。いかんせん、私という人間は自分の激情の炎を相手の心に移す際、こちらの炎の勢いをよくするために多少の不正を働くことには長けていたが、風向きを見て、一時その炎を抑えるといった芸当はできない性質だった。相手に嫉妬心を起こさせるためにわざと自分の気持ちが別のところにあるように装ったり、その人間が自分を追ってくることを見越して逃げ出したり、彼がそれを十分気にかけることを承知で無視したりと、そうした手段に訴えることは愚劣きわまりないものに思えて、私にはできかねた。』

とかね。わかるわー。そして自分の気持ちに振り回されることになるのだよ。

『たとえそうすることがどれほど相手に迷惑になろうと、また、その愛を勝ち取るという点でいくら自分が不利になろうと、アントニオを愛しているという気持ちを素直に相手にぶつけないではいられなかった。』

身につまされる。

『アントニオにまつわるこの苦悩を文字にすれば、心が浄化され、その治療にもなると期待して、私はこの物語を書き始めた。が、結果的にはそのどちらの効果もなかった。魔物は未だ祓われてはいない。悪霊に取り付かれたまま、その呪詛を私はなお負いつづけているのである。
いまの私はただ、己の信じることのなかった神に祈るばかりである。「おお神よ、どうぞお教え下さい、愛しつつ、愛さずにいられる術を!」と。』

他人事と思えぬ。

5日(土)
会社帰りに、近くの公園で、ラジオで『世界の快適音楽セレクション』を聴きながらブラウマイスターをたくさ飲んだ。居酒屋に行くより安上がりでいい、と思ったが、ビール代が思ったより高くついた。それに、たくさん蚊にかまれた。しかし、夜の公園で、黒い木々を見ながら飲むビールは、殊のほか美味しかった。
帰宅したら群像社より、『群』第28号が届いていた。

6日(日)
シネ・ヌーヴォで清水宏『簪』を観る。長年、ずっと見たかった映画。ビデオもさんざん探したが、どこのレンタル屋にも置いてなかった。念願叶ってうれしい。期待に違わず、とても良かった。夏の温泉宿で出会う人々の人間模様が淡々と描かれており、簪がもとで笠智衆と田中絹代が恋(のようなもの)におちるのだが、タイトルにもなっているキーワードの簪が一度も画面に出てこないのがいい。余計な説明が一切ないのもスマートだ。
人って、出会った時にもう別れているのかな、と思う。どんなに楽しいことにも必ず終わりがあり、輝きはやがて失せる。でもまた、何度でも出会えるのかな。終わってもまた始まるのかな。終わりの中に始まりがあるのかな。

7日(月)
7月の初めにうけた試験に合格する。すっかり忘れてたけど、急に合格通知が送られてきたのだ。ふうん、という感じ。
残業。へろへろと帰途につき、ジュンク堂その他で『波』『ちくま』をもらう。
夜、「9月の文庫新刊案内」を眺める。来月はとうとうあれが出る。古典新訳。嬉しい?もちろん嬉しいけれど、ちょっと複雑だ。

8日(火)
桃を食べようと、ぺティナイフを洗っていたら、何でか知らんけど、桃を切らずに、右手人差し指先をザクッと切ってしまい、血がジュルジュルと出た。絆創膏をグルグル巻きにする。不自由なり。

9日(水)
『理想の教室』シリーズの新刊を買いに、ジュンク堂へ。野崎歓『カミュ「よそもの」きみの友だち』(みすず書房)を買う。ふと、詩の棚を見ると、パステルナークの詩集の新刊『第二誕生』が出ていて、驚愕した。いつ出たの?無知とは実に恐ろしいものだ。『チェーホフ・ユモレスカ』とあわせて、3冊お買い上げ。
夜は、家でとろろそばとビール。

10日(木)。
ゴーヤの塩いためを作る。
『カミュ「よそもの」きみの友だち』を読了。世界の優しい無関心、について考える。なるほど、また数十年ぶりに『異邦人』を読み返してみよう。
夜、DVDで『鬼火』を見る。陰気くさくて物語性もなく、気だるくただただ鬱陶しい映画なのだが、私はなんでこういうものが好きなんだろう。面白くて仕方ないのだ。ジッと夢中で観てしまう。

淡々と過ごすことに、懸命になってみようとしている8月。


フクダ |MAIL

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