昨日・今日・明日
壱カ月|昨日|明日
ベランダのひまわりが枯れた。枯れた、というか、萎んだ、という感じだった。水をやっても、日に当てても、日陰にかくまっても、一旦萎み始めた黄色の花びらはもう復活しなかった。葉は茶色く、煎餅みたいにパリパリになった。 昨日、ゴミの回収日だったので、ガサガサに朽ちてしまったひまわりをビニール袋にまとめて捨てた。まだ早朝なのに、ゴミ置き場にはいっぱいゴミ袋が溜まってて、ハエがブンブン飛び、嫌な匂いがしていた。そこに、ひまわりを捨てた。 苗から成長していく植物を眺めるのは楽しかったかもしれない。しかし、季節の花はやがて枯れる。夏が終わっていくのだ、という気がした。
今年の夏休みは3日間だけだった。一瞬で過ぎた。一日は実家に帰り、もう一日は神戸に『ジャコメッティ展』を観に出かけたが、休館だった。月曜日でも、盆は開館していると勝手に解釈していた。入り口のところに鎖がしてあって、でっかく「本日休館日」と書いてあった。暑さと自分の間抜けさに頭がボウっとした。ボウっとしたまま、電車に乗って神戸に行き、古本屋でツルゲーネフ『貴族の巣』とドストエフスキー『白夜』をそれぞれ50円で買って帰ってきた。『白夜』はすでに所有しているが、装丁が違っていたので買うことにした。50円だったし。もう一日は、家で料理をしたり、掃除をしたり、近所を散歩したり、アリス・マンローの『木星の月』を読んだり、昼寝したりして過ごした。休みの3日などすぐだ。永遠のように感じる3日もあるというのに。
『ジャコメッティ展』は、先週の日曜にもう一度チャレンジしてみた。今度はちゃんと開館していた。ジャコメッティのヒヨロヒョロした人物彫刻を見ていると、ああ確かに人がこのように見える時がある、と思う。例えば、ずっと会いたかった人と会って、何時間か過ごして、別れる時などに。バイバイ、を言って、遠ざかっていくその人の後姿を見ている時などに。その姿は細く細くなって、いつまでも残像のように目の中から消えない。きっと消えてほしくないからだろう。今度はいつ会えるんだろう。本当にまた会えるんだろうか。そんなふうに思う時、あの人はジャコメッティの彫刻になる。 ジャコメッティが矢内原に宛てて書いた手紙を読んで、視界がユラユラした。展覧会で泣いたのは初めてだった。
夏休みが終わった後は、何ということもなく日常が戻ってきて、相変わらず、本を読んだり、音楽を聴いたり、時々映画を見たりしている。『パリ、テキサス』のDVDを買ったので、最近はそればかり観ている。何度観てもいいものはいい。 スサンナ・アンド・マジカル・オーケストラの新譜の中に、ボブ・ディランの『don't think twice,it's all right』のカバーがあって、これが誠に秀逸だった。良すぎて、くよくよしそう。 3週間ほどかかって、『未成年』を読了した。一仕事だった。面白いのに読みにくいとはどういうことだろう。でも褒めてもらえたから、わたしはそれだけでいい。『異邦人』も再読した。やっぱりいい小説だった。続けて『幸福な死』も読んだ。昨日はカズオ・イシグロ『遠い山なみの光』を読了し、今日これからは、図書館で借りた『新潮』の柴崎友香『その街の今は』を読もう、と思っている。 今の会社に転職した一番の理由は、本を読んだり映画を観たりする時間と資金をある程度潤沢に確保するためであったが、それはいまのところ、まあまあうまく行っているように思える。相変わらず、時間は足りないことに変わりはないが、これ以上贅沢は言えない。
また、何か植物を育ててみようかなあ。今度は、枯らさないように。 何でもいいから何かに夢中になりたい。意識を分散させたい。その道をどんなに探しても、いつも同じところに行き当たり、袋小路に迷いこんで、さみしい気持ちになってしまうのだ。
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