昨日・今日・明日
壱カ月昨日明日


2006年08月03日(木) あんなに近づいたのに遠くなっていく

8月になってすぐ、ベランダのヒマワリが咲いた。まだ直径15cmくらいで小ぶりだけれど、ちゃんと太陽の方を向いている。夏になってしまった。

日記をどこまで書いたか忘れた。『再会女ともだち』を読んだこと書いたっけ?土用の丑の日に、難波でうなぎを食べたことは?ラジオ深夜便で荒川洋治の読書案内を聞いたことは?久しぶりに文楽を観に行ったことや、『イサム・ノグチ展』に行こうとして、途中でなんとなく気が向かなくなって帰ってきてしまったのはいつのことだっただろう。
何もかも、ずっと昔のことのように思える。

天神祭に行こうと誘われて、断った日に、Tが友達から借りてきたくるりのベストを聴いた。天神祭を断ったのは、人ごみが嫌だったのと、花火を無邪気に楽しむ自信がなかったからだ。花火キレイだったよね、と翌日職場の人たちが話していた。花火がキレイなのは当たり前だ。キレイに見えるように作ってあるんだから。そんなわかりきったものを見ても仕方がない。こんな自分はやはり生きにくい。

くるりのベストについてたブックレットの京都の写真の数々に、大昔にわたしが働いていた会社が写っていたのには少々びっくりした。バイトの帰りによく食べたアローンのオムライスとか、通ってたわけでもないのにしょっちゅううろついていた今出川同志社前の交差点とか。京都の風景は故郷というより、青春のアルバムのようだ。甘酸っぱくて苦い。切なくて恥ずかしい。戻りたいと思う?戻りたくはないな。それに、戻ろうにももう、帰り道がない。わたしには退路がない。

ロドリゴ・ガルシアの『美しい人』をテアトルで観た。人間は、平面でなく、立体だ。立体で捉えないと、掴み損ねる。
短編小説のような映画。ワンシーン・ワンカットで、それぞれの人生の輪切りを見せられる。ホリー・ハンターが好きだから観たくなったのだが、最後のグレン・クローズの話に泣かされた。この祝福が本当なら、この先どんな屈辱にも耐えていけると思った。

帰りに、加藤幹郎『映画館と観客の文化史』(中公新書)、ブルーノ・ムナーリ『ファンタジア』(みすず書房)、プーさん特集の『飛ぶ教室』夏号を買った。

それから、他にも買ったものはいろいろある。OKIの『DUB AINU DELUXE』とか。これはいいわ。いいよ、やっぱり、OKIはいいわ。
ルイ・マル『鬼火』とジャームッシュの『ナイト・オン・ザ・プラネット』のDVDとか。中南米音楽の通販でイチベレ・オルケストラ・ファミリアのCDとか。エルメート・バスコアールが96年から97年にかけて毎日1曲づつ作った「音のカレンダー」。
古本では、みすずの現代美術シリーズ『デュフイ』とか。それに野見山暁治の『セルフィッシュ』も。文章は田中小実昌。

今日は休日で、朝からシーツを洗濯して、アレサ・フランクリンを聴きながら朝ごはんを食べて、この日記を書いた後は、ちょいちょいと掃除でもして、郵便局に振込みに行って、夕飯にラタトゥユを作るつもりだからその材料の買出しをして、午後からは涼しい近所の喫茶店で、図書館で借りたアリス・マンロー『イラクサ』と、フランシス・キング『家畜』を読了してしまおう、と思っている。そして、日が暮れたら部屋を暗くして『ナイト・オン・ザ・プラネット』の続きを見よう。昨夜は、ロスでのウィノナ・ライダーとジーナ・ローランズの話だけ観たから。
そうやって、また何でもない誰のものでもない、一日が終わるんだな。

どこかへ行ってしまいたい。どこかへ行って、誰かに会いたい?そうだなあ、会いたいな。辛くなるってわかっててても、それでもやっぱり会いたいな。



フクダ |MAIL

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