昨日・今日・明日
壱カ月|昨日|明日
相も変わらず、どうしようもない寂寥感と二人連れの日々。 いったいなんなんだ。このままどこまでいくんだろう。
仕事で難波まで行き、歩いて梅田方面に戻る途中、天牛堺書店に寄った。330円均一台で、日野啓三『都市という新しい自然』(読売新聞社)を見つけた。 大学生の時、この本を図書館で借りた。中ほどの「タルコフスキーの世界感覚」という章を読んでたいへん感動し、『ノスタルジア』をビデオで初めて観た。衝撃だった。
日野啓三を読まなかったら、タルコフスキーを観ることもなかったかもしれない。タルコフスキーを観なかったら、今のわたしはなかった。絶対になかった。十数年ぶりに、テラテラ光るシルバーの(装幀は菊池信義で、坪内祐三の『別れる理由が気になって』とほとんどおんなじ)見た目は趣味のあんまり良くない本を、今この時に、再び手にとることができ、めぐり合わせは不思議だと思った。奇蹟は、毎日おこっている。
以下、「タルコフスキーの世界感覚」より。
『かつて詩は世界を最もわかり易く表現するものとして尊敬されていたが、いまや詩は最もわかりにくいものとされている。タルコフスキーが我慢がならないのはそのことだ。彼の映画の登場人物たちは、ドストエフスキーの小説の登場人物たちのように、長々と苛立って興奮してしゃべりたてるが、それはロシア人の癖であるとともにタルコフスキーの深い苛立ちを代弁するものである。きみたちは詩を失い、世界感覚を失い、世界そのものを失っている、と。』
『あれこれの感情を、美しく崇高に、悲壮に重々しくあるいは戦慄的に表現した映画はたくさんある。世界の一部、世界についての特定の解釈を鮮明に描いた映画もある。だがタルコフスキーは解釈ではなく世界そのものを、名づけられる感情ではなく言い難い感覚そのものを描きあげたのだ。』
きょうはもう一冊、阿部昭の『言葉ありき』(河出書房新社)も買った。
今までは日野啓三を読んでいたけれど、この後は、土曜日に図書館で借りた、渡辺聡子『チェーホフの世界 自由と共苦』を読もうと思う。
寝るつもりはないのか。
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