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■ 2008年05月05日(月) 讃岐路(崇徳院霊蹟巡り) <画像あり>
連休最後の2日間、とある目的で香川へ来ております。四国上陸は去年のGWの高知以来ちょうど1年ぶりです。近くて遠い島。
さて、その「目的」には明日挑むとして、本日は香川の未訪の寺社を巡ります。何つーか崇徳院霊蹟巡りな赴き。取り敢えず四国へ着くなり讃岐うどんでちょっと早めの昼食。前回、醤油でうどんを食うという有り得なさに激怒した東京っ子の私、今回は出汁じゃないと食わんと事前に相方に申し渡しておいたので、出汁のあるお店に連れてってもらいましたが、出汁しょっぱかった。何つーか、いりこ使いすぎ? 今まで食べた讃岐うどんで一番美味しかったのが、善通寺で食べた御接待のうどん(無料)。やっぱり讃岐うどんは東京の田舎モンな私の口には合わないようですw
そんなこんなでまずは四国79番天皇寺へ。
その前に崇徳上皇について簡単に。 崇徳上皇は平安時代末期の第75代天皇です。1123年僅か5歳で即位し、1142年に異母弟の近衛天皇(2歳)に譲位し、上皇となります。譲位した崇徳上皇は自らによる院政を期待していたのですが、父・鳥羽法皇の院政が続き、失意の日々を送ります。その鳥羽院が1156年に崩御し、後白河天皇方と崇徳院との間で保元の乱が起きます。敗走した崇徳院は讃岐へ流され、その地で仏教に傾倒し、五部の大乗経を書写して「京の寺に納めて欲しい」と朝廷へ差し出しますが、呪詛を疑った後白河にこれを拒否・返送され激怒。舌を噛み切りその血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」という呪いの誓文を大乗経に書き込み、爪や髪を伸ばし続けて1164年、讃岐で崩御したといいます。 こんな感じで亡くなられているので、当時の人々も後の世の人々も崇徳院の怨霊を非常に恐れ、明治天皇は即位に際し讃岐に使者を送り、その霊を京都へ帰還させて白峯神宮を造りました。
そんな崇徳院の遺体が安置されていたのが、ここ天皇寺。遺体の処遇について京からの返事を待つ間、腐敗を防ぐために境内にある「八十場の霊泉」という泉に遺体を浸していたところ、21日間が過ぎても上皇の顔はまるで生きているようだったということです。 で、遺体が荼毘に付されお隣の白峰宮に祀られました。
天皇寺・白峰宮両方に参拝してから、天皇寺の納経所へ御朱印頂きに行きました。おじいさんと中年男性が御朱印してましたが、特に理由はなくおじいさんの方へ御朱印帳を開いて差し出します。 御朱印する方って大体パラパラと御朱印帳の中を見られますが、そのおじいさんもペラペラ捲って中見てました。で、四国八十八ヶ所って御朱印に日付入れないんですが、「他は入れてるから入れようか」と日付入れて下さいました。八十八ヶ所で日付入れてくれたのは、今治の南光坊に続いて2ヶ所目。でも隣の中年男性は、何か言いたそうな渋い顔でそれを見てましたw
続いて81番札所白峯寺へ向かいます(80番国分寺は参拝済)。 白峯寺へ続く五色台の山道を登り始めたあたりで、「血の宮」を発見。天皇寺を出発した崇徳院の遺体は、ここ高屋に差し掛かった辺りで雷雨が起こり、遺体をの納められた柩をここに安置したそうです。その際、柩を置いた台石に柩から血が流れたとか。で、国史見在社(延喜式にはないけど六国史に名前の載る神社)の高屋神社に崇徳院を合祀し、「血の宮」と呼ばれるようになったそうで。台石は社殿の中に納められているようです。 崇徳院の死に関しては病死説自殺説等ありますが、二条天皇の命を受けた武士・三木近安に暗殺されたという話が江戸時代の「讃州府誌」に出ています。真偽の程は判りませんが、柩(即ち遺体)から血が流れたってのは不穏ですね。
そんな血の宮への参拝も済ませ、更にヘアピンカーブの続く山道を登って白峯寺へ。天皇寺の八十場の霊泉に浸された崇徳院の遺体は、ここ白峯寺で荼毘に付され、御陵が営まれました。 八十八ヶ所のお寺には本堂と大師堂があって、その両方をお参りして回るのが遍路の基本です。ここにもたくさんのお遍路さんがいて、本堂・大師堂には般若心経や光明真言なんぞを唱える白装束の方々がおりましたが、山門−本堂−大師堂のルートから少し外れる崇徳院御廟所・頓証寺殿には殆ど人がいませんでした。えー何だよ! この寺のメインはある意味ここだろ! ちなみにここ白峯。五色台(黄峯・白峯・赤峯・青峯・黒峯)の一峯ですが、「青馬紫衣の者、三木姓の者、白峯に上るを得ず」と言われています。紫の手綱を付けた青馬に乗った三木近安が崇徳院を暗殺したからだそうです。参拝の際は紫の服は避けましょう。
左、天皇寺と白峰宮。右、白峯寺頓証寺殿(崇徳天皇御廟所)。
白峯寺から白峯山の頂上、陸自の演習場なんかを抜け、五色台スカイラインに合流(昔は有料道だったそうですが、今は無料です)。そこから1kmくらいで82番札所根香寺へ到着。これで「ねごろじ」と読みます。 こちらは崇徳上皇ではなく牛鬼(うしおに)伝説のお寺。400年以上昔、この山に牛鬼という化け物が住んでいて人々を困らせていたそうで、その退治を頼まれた弓の名人・山田高清が化け物が現れるようお寺に祈願し、満願の日、遂に化け物が現れ、無事退治できたのだそうです。その牛鬼の角と絵姿の軸が寺にあるそうですが、ネット上のみの公開です。 秋には紅葉が美しいそうですが、今は青葉。新緑のもみじも綺麗です。御本尊の十一面観音は秘仏で、33年ごとの御開帳。前回は5年前の2003年だったので、次は2036年です。遠いな。五大堂の五大明王(県指定文化財)は公開されてますが、ただいま修復中だそうで金剛夜叉明王がお留守でした。
さて、本日のお宿は坂出でも高松でもなく観音寺。香川の西の端です。 観音寺と言ったらアレですね。勿論アレに向かいます。 でもその前に、まずは琴弾八幡宮に参拝。神仏習合の時代は、ここが68番札所だったそうです。 鳥居横の駐車場に車を止め、社殿へ向かおうと思いますが、すごい階段。え? 神社、山の上? 当方膝が悪いもので、「絶対車で上れるルートがあるハズ!」と相方に車で上まで迎えに来てもらいましたw こちらは新四国曼荼羅霊場の23番。御朱印頂いたら、マッチとポケットティッシュと、23番札所の御影と「神社での参拝の作法」が書かれた紙をセットで頂きました。
さて車ルートの途中に「象ヶ鼻展望台」があります。ここからは勿論瀬戸内海が一望出来ますが、見るべきはそんなものではありません。観音寺と言ったらこれでしょう、これ。
これ、銭形平次のタイトルバックで有名な銭形砂絵です。これ見るとお金に不自由しないとか? わーいじゃあもう不自由しないね♪ でもタイトルバックの画ってもっと上から写してるような気がするんですが、空撮ですか? それとも脚立か何か? あるいは気のせい? ちなみに第二次大戦中、米軍は何か軍事機密が隠されてるんじゃないかと偵察を繰り返したそうですが、遂に終戦まで正体が判らなかったそうですw 銭形の後ろでは物凄い数の人が潮干狩ってました。
琴弾山を下り、麓の神恵院と観音寺へ。こちら四国霊場唯一の一寺院二札所となっております。元々、観音寺が琴弾八幡宮の別当寺としてあったのですが、神仏分離で八幡宮の本地仏・阿弥陀如来を境内の西金堂に移し神恵院と改めたそうです。なので納経所も1ヶ所。
さて、今回の旅の目的は全て明日にあるワケですが、それに備えて膝をアイシングし、お風呂では念入りにマッサージ。膝痛筋肉痛じゃ明日は乗り切れません。頑張れあたし。
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・過去の「今日」。
2006年05月05日(金) 4国紀行―出雲・石見編 <画像あり> 2004年05月05日(水) 月蝕と海 <画像あり>
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