無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年07月23日(水) 神ならぬ身なれば/映画『不連続殺人事件』/DVD『レトロスペクティヴ シティボーイズライブ! 1992−1994』

 福岡市の一家4人殺害事件、犯人(?)の似顔絵が発表されたけど、なんかビートたけしに似てないか(^o^)。
 つか、なんで肩揺らして首を曲げて斜めを見てんのよ。そういう仕草してるって情報でもあったのかね?

 
 少女監禁事件でちょっと影が薄くなってた(という見方は不謹慎なんだが、実際マスコミの報道の「量」を考えればそれは事実である)長崎の駿ちゃん誘拐殺人事件、駿ちゃんのお父さんが、昨22日、犯人の少年が事件についてコメントしている言葉を聞いて、激昂していることを発表。
 少年が被害者への謝罪の気持ちを表したり、「自首するつもりだった」などと話していることに対して、お父さんは「言い訳としか思えない」と反発しているとか。事件直後、既に「極刑に」と怒りを表明していたから、少年の反省の気持ちなど受け入れられないのは分るが、12歳の少年がたいした罪の意識など持ち得ず、「言い訳」にしか聞こえないコメントしか言えないのも事実だろう。
 既に少年が最近書いた作文なんかがあちこちで紹介されてるが、まあマトモに読めるシロモノではない。もっとも、イマドキの中学一年生の文章力なんて、大概あの程度のものであろう。それなりに文章が書ける人間は自分を基準にして判断してしまうから、あの12歳がすごく幼稚で精神的に欠陥があるように思えてしまうが、実際はあの程度のバカガキはそこいらにゴロゴロしてるんである。
 まあどんなコメントを口にしてるのかは分らないが、「ぼくはとてもわるいことをしてしまいました。こんなことはもうにどとしたくないです。しゅんくんのおとうさんおかあさんごめんなさい」とかそんなものではなかろうか。多分、誰が見ても誠意だの反省の念だの全く感じられないものじゃないかと思う。
 少しずつ少年を取巻く環境や、親の教育の仕方にも異常なところがあったような報道がされつつあるが、さて、それがどれだけ真実に近いものだろうか。既に世論は全ての責任を「親」におっかぶせて、事件の持つ本質的な意味から目を逸らそう逸らそうとしている。犯人の少年だって、そのうち自分には責任がない、「親」がボクを虐待してたんだとかなんとか責任を回避するような「知恵」を学習するのではないか。
 これは冗談ではなく、昨日読んだ『フロイト先生のウソ』に、残虐な行為に走った子に過去にトラウマがなかったかどうかほ「誘導」すると、一様にありもしなかった「虐待」の事実を思い出す、という例が報告されているのである。それくらい12歳(実はオトナも)の記憶力や認識能力などはアテにならない。
 12歳の心の闇を探る、と言っても、現実にはブラウン運動を予測するようなものだ。将来的に彼が心の底から罪を悔いる気にならないとまでは断定しないが、たとえどんなに心の底からの贖罪の言葉を彼が口にする日が来たとしても、駿くんのご両親の気持ちが晴れることなどあるまい。
 「更生の可能性があるなら」、年齢に関わらず、加害者にはその機会が与えられなければならない。これはもう法治国家の義務みたいなものだ。で、「更生の可能性がない」などと断定することなど、簡単にできるはずがないことは納得せざるを得ないだろう。その理念のもとに立っていれば、法的判断が加害者の人権を最大限保護する方向に動くことは当然のことなのである。
 つまりあの12歳を処断するためには、彼が「全く更生の可能性がない」ことを「事実に反してでも」証明しなければならない。世論は今、「そういう方向に」動こうとしている。それがどれだけ危険なことか、お分りいただけようか。
 私はもう、発想を変えて、「加害者に更生する可能性があっても極刑に処す」法理論を確立しなきゃならんのじゃないかと思っている。「この先何十年も更生と反省の日々を送らせるのはつらかろうから、早いとこ死なせてあげようよ」というリクツである。乱暴だというご意見もあろうが、だったら、駿くんのお父さんの「極刑に」発言はもっと乱暴であろう。被害者の親であることが意見の正当性を保証するものではないのである。
 それがダメ、というなら、社会は少年の更生に関して「責任」を持つしかない。地域が、彼に関わる人全てが、何らかの形で彼の一生の一部を引き受けなきゃならないことになるのである。その可能性を考えずに、法がどうのと好き放題言ってるやつの意見なんぞ、一片の価値もないのだ。
 

 CS日本映画専門チャンネルで録画しておいたATGアーカイブ『不連続殺人事件』を見る。
 坂口安吾の日本推理作家協会賞受賞作に惚れ込んだ曾根中生監督が原作に忠実に映像化。1977年公開。
 脚本に大和屋竺・田中陽造・曾根中生・荒井晴彦の4名が名を連ねているが、ストーリー構成もセリフもまさしく原作そのままである。探偵小説として無類の完成度を誇っている作品だから、イジリようがなかったのかもしれないが、正直な話、楽な仕事してんなあ、という印象は否めない。小説をそのまま引き移しても映画になるはずもなく、昔見た時にも思ったんだけれど、演出がなんともヨワイのである。
 安吾自身はこの小説のトリックを独創的なものと主張していたが、実は彼が尊敬してやまない海外の某作家のいくつかの長編のトリックを頂いている(タイトルは未読の方のために隠しときます)。それを喝破した横溝正史は、文士の余技にプロの探偵作家が負けてたまるか、それじゃあ、オレが同じトリックを使って「上をいくもの」を一つ書いてみせようと、更に創意工夫を凝らして代表作の一つとなる金田一耕助ものを一作、安吾風のファルスを一作、モノにした。それくらいポピュラーなトリックだから、すぐに見破れそうなものだが、どっこい、原作の方はそう簡単にはいかない。
 推理作家協会賞授賞式で、江戸川乱歩は、この小説の最大のトリックは、安吾の意図したソレではなく、安吾の文体そのものにある、と言った。あの「無頼派」の文体によって描写される人物がいずれも俗悪かつ淫靡で、もう誰が犯人でも構わんじゃないかという印象を与える点がスバラシイというのだ。
 一見、ホメているようではあるが、この乱歩の指摘は、「アンタの考えたトリックは先例があるから威張れたもんじゃないよ、賞をやるのはアンタが無意識で書いてる文章が物語を錯綜させる効果を偶然あげていて、これも一つのトリックと解釈できるからだよ」と言ってるのに等しいのだが、安吾自身はこの受賞をすごく喜んでいたそうだ。おめでたいことだが、微笑ましくもある。
 問題は映画である。
 安吾の文体そのものがトリックだとすれば、映画はその文体を映像にいかにして移し変えるか、ということに腐心しなければならないのだが、そこでこの映画は決定的なミスをしてしまった。原作に忠実だからではない。ほんの少しだけ、「原作にない余計なシーン」をつけ足してしまったのだが、これがミステリ慣れしている人間から見れば犯人バレバレのヘボ演出だったのである。探偵小説の機微を知らない演出家に作らせるとこういうことになるのだが、実際、テレビの2時間ドラマの類ではこの手のヘボ演出はやたら多いのだ。
 面白い偶然はあるもので、この『不連続殺人事件』の元ネタの一つとなった某作家の小説が、翌年映画化されて日本にも輸入されたのだが、やはり「原作にない余計なシーン」を付け加えていた。その原作を私は当時はまだ読んでいなかったのだが、「全く同じ映像」が展開されるので、そのシーンが出た瞬間にトリックを見破ってしまった。二作を比較すると二つの作品のトリックが同一であることが簡単に分かる。その海外映画はミステリとしての評価が案外高いのだが、そういう理由で私は今に至るも失敗作だと思っている。
 それにしても二作の監督が「創造した」はずの演出法が、全く同じであったというのは、映像作家としてもちょっと問題なのではなかろうか。もちっとアタマは働かなかったのかと情けなく感じることである。
 本格ミステリが必ずしも映像に向かないとは思わない。ただ、映画監督というのはどうしても「映像」のドラマを優先してしまうので、ミステリとしての要素は簡単に破綻する。それを両立させる方法を案出できないならミステリ映画を撮ろうなどと思ってはいけない。
 でも、そんなにつまんないと言うほどではないのだ、この映画。
 キャストだけはこの映画、通好みだと言える。ATGのことだから実際は「そのときスケジュールが空いていた」人を寄せ集めただけに過ぎないのだが。以下にそれをちょっと示して見る。
 
 歌川一馬(嵯川哲朗)詩人。8番目の被害者。
 歌川あやか(夏 純子)一馬の現在の妻。土居光一の元妻。
 歌川珠緒(水原明泉)一馬の妹。放蕩娘。2番目の被害者。
 歌川加代子(福原ひとみ)一馬の腹違いの妹。肺病病み。5番目の被害者。
 歌川多門(金田龍之介)元政治家。一馬の父。6番目の被害者。
 下枝(泉じゅん)歌川家の小間使い。多門の現在の妾。
 矢代寸兵(田村高廣)作家。
 矢代京子(桜井浩子)八代寸兵の妻。歌川多門の元妾。
 土居光一<ピカ一>(内田裕也)画家。
 望月王仁(内田良平)流行作家。1番目の被害者。
 巨勢博士(小坂一也)探偵小僧。
 南雲一松(殿山泰司)疎開中の老人。
 南雲由良(初井言栄)一松の妻。多門の妹。
 南雲千草(伊佐山ひろ子)一松と由良の末娘。3番目の被害者。
 三宅木兵衛(石浜 朗)フランス文学者。
 宇津木秋子(楠 侑子)女流作家。三宅木兵衛の妻。歌川一馬の元妻。7番目の被害者。
 神山東洋(神田 隆)弁護士。多門の元秘書。
 神山木曽乃(絵沢萠子)神山東洋の妻。元新橋の芸者で多門の元妾。
 人見小六(江角英明)劇作家。
 明石胡蝶(根岸とし江<季衣>)女優。人見小六の妻。
 丹後弓彦(木村 元)翻訳家。
 内海 明(内海賢二)詩人。傴瘻男。4番目の被害者。
 海老塚晃二(松橋 登)歌川家主治医。
 諸井琴路(宮下順子)看護婦。
 坪田平吉<ツボ平>(粟津 潔)小料理屋の主人。宇田川家の元料理人。
 坪田テルヨ(岡本 麗)その内儀。
 八重(梓ようこ)歌川家の女中。
 奥田利根五郎(谷本 一)復員軍人の製図工。論語読みの狂人。
 片倉清次郎(浜村 純)歌川家の元番頭。
 南川友一郎巡査(長 弘)駐在。
 平野雄高警部<カングリ警部>(桑山正一)捜査部長。
 荒広介部長刑事<八丁鼻>(武藤章生)
 長畑千冬刑事<読ミスギ>(清川正廣)
 喜作(西沢武夫)歌川家の下男。

 原作にはあと飯塚文子、別名アタピン女史という女刑事も登場するが、これはカット。しかしそれ以外は殆ど原作をカットしていない。よくぞ140分の枠に収めたものである。
 特撮ファンには『ウルトラQ』『ウルトラマン』の桜井浩子の出演が嬉しいところだろう。『Dr.スランプ』則巻千兵衛役などの声優、内海賢二が顔出しで出演しているのも珍しい。江角英明は『ルパン三世』のパイカルや『こち亀』の邨田署長の声優だが、もともと日活のバイプレーヤーとして活躍していた人だ。
 内田裕也はこれ以前にチョイ役で『エレキの若大将』などに出演してはいたが、本格的な映画出演は初めて。あくまでロックシンガーであるという意識を持っていたのか、時代設定が戦後なのに、その当時のアフロな髪形のままで出演。これにはムチャクチャ違和感があったが、芝居もドシロウト以下であった。後年、『戦場のメリークリスマス』『コミック雑誌なんかいらない』ほかで狂気的な演技を披露することになろうとは当時は全く予測していなかった。
 探偵役の故・小坂一也はアプレゲールの軽妙さが今一つ出ていない。時代を原作通り昭和22年に設定してくれたのはいいのだが、戦後の「雰囲気」まではなかなか再現できなかった。
 それにしても故人の多いことよ。しかも好きな役者さんばかりだ(T.T)。考えてみれば映画公開時からもう26年が経っているのだ。内田良平、殿山泰司、初井言栄、神田隆、浜村純、桑山正一各氏、みな今は鬼籍の人。悲しい。

 詳細は省いているが、原作第1章に「俗悪千万な人間関係」とある通り、一馬と加代子は兄妹でありながら道ならぬ恋に落ちていたり、珠緒は誰彼なしに男から男へと渡り歩いていたりしている。魑魅魍魎跳梁跋扈と言うか、小説を読んでも映画を見ても、胡散臭い登場人物が多過ぎて、誰が誰やら区別がつかないのである(^_^;)。これでは確かに誰が犯人であるか見当がつかないのも当然だ。私は映画より先に原作小説を読んでいたが、私が想定した犯人も全くのハズレであった。
 映画を見るか小説を読むかとはよく言われることだが、まずは安吾が純然たる「ゲーム小説」として書いた原作を賞味して頂くのが順当だろう。
 『不連続』に始まる「巨勢博士シリーズ」には、長編『復員殺人事件』(中絶のため続編は『樹のごときもの歩く』と題して高木彬光が執筆)、短編二作『選挙殺人事件』『正午の殺人』がある。これは全て『坂口安吾全集11』(ちくま文庫)で読める。11、12巻には『安吾捕物帖』も収録されており、これは勝海舟を狂言回しにした最上質の短編ミステリ集なので、ぜひご一読を請うものである(昔、NHKで連続ドラマ化されたこともあるのでご承知の方も多かろう)。安吾が若死にしなければ、もっともっと探偵小説を書いていたことだろう。
 野田秀樹も「坂口安吾の生まれ変わり」とか嘯いてるなら、巨勢博士シリーズを続けて書いてみろと言うのだ(もちろん彼が生まれ変わりではない証拠はいくらでも出せるが、その一つに、野田秀樹はドストエフスキーの『罪と罰』を探偵小説として評価しているが、安吾は生前にそれを『私の探偵小説』の中で「暴論」と切って捨てている事実がある。好きならエッセイまでちゃんと読んどけよ、野田秀樹)。

 『不連続殺人事件』は、後に1990年11月、フジテレビの「男と女のミステリー」枠で「昭和推理傑作選」と題して再映像化されている。脚本は安倍徹郎、演出は若松節朗。2時間の枠に収めるためにかなり人物が整理されている。例えば巨勢博士、八代寸兵、八代京子の三人は巨勢博士(野村宏伸)一人に統合された。
 他のキャストは以下の通りである。映画版と比較するのも一興だろう。
 
 歌川一馬(古尾谷雅人)
 歌川あやか(佳那晃子)
 歌川珠緒(芦川よしみ)
 歌川多聞(内田朝雄)
 宇津木秋子(松本留美)
 明石胡蝶(白都真理)
 南雲千草(あめくみちこ)
 杉江下枝(万里洋子)
 川北加代子(浅野愛子)
 八重(石井富子)
 絹代(絵沢萌子)
 諸井琴路(中尾ミエ)
 平野警部(山谷初男)
 車掌(ラサール石井)
 荒刑事(山田辰夫)
 望月王仁(原田大二郎)
 丹後弓彦(ベンガル)
 人見小六(河原崎健三)
 三宅木兵衛(速水亮)
 内海明(ビートきよし)
 海老塚医師(西岡徳馬)
 土居光一(神田正輝)

 こちらはなんとなく元アイドル総登場と言った雰囲気だ(^o^)。芦川よしみも最近見ないなあ。万里洋子も浅野愛子も当時は清純アイドルとして売ってたものだったが、お決まりのヌードから引退というパターンを辿った(と思う)。絵沢萌子は映画版にも登場しているが、テレビ版では待合(連れこみ旅館のこと)のおかみ役。個人的には巨勢博士と推理合戦を繰り広げる腹の知れぬ弁護士、神山東洋がカットされたのは残念である。
 近親相姦ネタは避けて、巨勢博士と加代子の間にほのかな愛情を感じさせるなどのアレンジは推理ゲームとしては余計であるが、テレビドラマの性格を考えるといたし方のない改変だろう。当然、内海明も傴瘻男ではない。


シティボーイズDVDボックス1、『レトロスペクティヴ シティボーイズライブ! 1992−1994』、立て続けに鑑賞。
 舞台のテレビ放映はどうしても魅力が半減してしまうが、シティボーイズは比較的その魅力が減殺しない珍しい例である。すごく単純なことだけど、セリフの間がちゃんと取られているから、耳で聞いてるだけでも面白いのだ。小劇場の連中が、夢の遊眠社についても第三舞台についても、ビデオ映像になると途端につまらなくなるのは勢いだけで間がなっちゃないからなんだよね。ああ、あと、セリフ回しも芝居も一律で、キャラクターも全然演じわけられていない。しょっちゅうトチる(^_^;)シティボーイズのお三方より、つまんない芝居しか作れなかったのはなぜか、小劇場出身者はもちっと考えた方がいいよ。
 収録されているのは『鍵のないトイレ』『愚者の代弁者西へ』『ゴム脳市場』の三本。けれどWOWOW放送時より、随分カットされている。
 『鍵のないトイレ』は、本編のカットはないが、楽屋裏インタビューと、ラジカル・ガジベリビンバシステムの紹介映像がカット。
 『愚者の代弁者西へ』は、『ラジカセマン』のスケッチがまるまるカット。ホームレスを扱ったのが悪かったのか、『コンドルは飛んでいく』をBGMに使ったのが、ビデオ化する際に許諾が取れなかったのか。ピー音が入るのまでは我慢するけど、まるまるカットというのはなあ。おかげで、WOWOW放送時の録画ビデオが消せないのである。『ゴム脳』には見たところ、カットはなかった。
 それにしても、毎年見るたびに面白くなって、ついにはこのライブを見るために上京するようになるとは、10年前には思ってもいなかったのである。

2002年07月23日(火) 夫婦ファイト!/『コリア驚いた! 韓国から見たニッポン』(李元馥)/『ロングテイル オブ バロン』(柊あおい)ほか
2001年07月23日(月) 猛暑に耐えるくらいならクーラー病の方がいい/『(週)少年アカツカ』(赤塚不二夫)ほか



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