無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年07月04日(金) 私は多分ちょっと本気で怒っている/『放送禁止歌』(森達也)

 ニカウさんが亡くなったそうです……って、覚えてる人もなかなかいいトシになっちゃいましたねえ。
 1980年の映画『ミラクル・ワールド ブッシュマン』は、輸入会社も予想しなかった大ヒットを飛ばしたけれども、「神様の落し物であるコカ・コーラの瓶を拾ったブッシュマンが、神様のところに返しにいく」だけの単純なストーリーがなぜか当時の人たちの心を打ったのですね。私も見に行きましたが確かに普に「面白かった」記憶はあります。
 科学的、人工的な現代文明にどっぷり使った生活してるとね、ふと「これでいいのかな、何か我々は『自然』に忘れものをしてきてないかな」なんて気になっちゃう時があるんですねえ。でもって、何年か置きに起こるそんな「自然回帰ブーム」にちょうどマッチした感じでその手の映画がヒットするんですよ。その典型的な例。
 でも今、同じものが作られてもさてヒットするかどうか。だって今や日本じゃその手の映画を恒常的に提供し続ける「スタジオジブリ」って映画会社がありますから(^o^)。
 宮崎駿がその名声の第一歩を示すことになる『風の谷のナウシカ』の漫画原作を描き始めたのが、その2年後の1982年。実際、ジブリ作品を除けば、この手の映画がヒットしたのって、『ブッシュマン』が最後じゃなかったか。
 あとで「あの映画は実はヤラセだ」とか批判が出たけど、ドキュメンタリーじゃなくて劇映画なんだから、こんな的外れな批判はない。それくらい日本人の「自然」願望は歪んでたとも言えるのである。

 ニカウさんは、1日にまきを拾いに出たまま戻らず、捜しに出た家族が草原で死んでいるのを見つけたという。推定59歳。


 さくら出版のマンガ原稿流出事件について、テレビレポーターが元社長に取材していたのを見る。と言っても本人、姿は現してない。
 「その件は弁護士を通じて」とコメントしてあとは沈黙ってのはまあ、分からないでもないが、そのあと更に弁護士に取材したら、「それは犯罪の話になるので言えない」って……。言ってるじゃん(^_^;)。
 つまりはアレが全部「不正流出」だということを認めちゃってるってことではないのよ。となりゃあ、そのへんの事情を「まんだらけ」が一切知らなかったって言い訳はちょっと成り立たなくなってくるね。
 インタビューに答えてた弘兼憲史さんも「あれは盗品」と明言されていたけれども、これから先、裁判で係争していってちゃんと原稿がマンガ家さんの元に戻ってくることになるのかどうか。結論が出るのに時間がかかった場合、その間に二重流出が起こりはしないだろうか。
 ゴタゴタする前に、「まんだらけ」社長が原稿を返す度量を見せてくれたらいいんだけれど、なんかテレビで見たこのおっさん、洗脳されてた頃の蓮○薫さんみたいな顔してて(例えがよくなくて申し訳ないが、なんか目がイッちゃってんだもの)、アテになりそうにないのである。高飛車なモノイイをするわけでも倣岸な態度を取るわけでもないのだけれど、「原稿をほしいのであれば買い取っていただくということで」と淡々と喋ってるあたり、一筋縄ではいかないような雰囲気なのである。「管理が悪いのはマンガ家と出版社の責任」って、出版社はともかく、マンガ家は違うでしょう。出版社に「原稿返して」と要求しても返却に応じてくれなかったんだから。それが分らないはずはないのにいけしゃあしゃあと言ってのけるあたりが、「わかってやってる」度が高いと思うのである。
 ああ、ほんなこつ、誰か大金持ちが原稿全部買い戻して、マンガ家さんたちに無償で返してくれないものだろうか。
 ……って、それじゃ問題の根本的解決にならんことは重々承知してるのだけれども。


「WEB現代」の『あなたとわたしのGAINAX』が面白い。
 第2回「ゼネラルプロダクツ」で、ガイナックスの統括本部長の武田康廣氏へのインタビュー、それなりの長さ(12分)をかけているので、「あの頃」の歴史を思い出して懐かしさに浸れる。
 と言っても、私は学生で貧乏で、とてもSF大会に参加できる余裕はなく、アニメ誌の記事を見ては、「ああ、自分たちよりちょっと年上の人たちがアマチュアなのにこんなスゴイことやってるんだ」と、「DAICON3&4」のOPアニメーションの趣味っぷりに感激していたものである。
 既にこのフィルム自体もSF大会などごく限られたイベントでしか上映されなくなっているので、「幻」と言ってもいいと思うが、オタクという言葉が発生する以前の、「アニメファン」の原石の輝きのようなものがアレにはあった。「美少女とメカ」はもちろん性のメタファーではあったが、何かまあ、そこに我々はアマチュアならではの「純」なものを見出していたのだ……と思う。
 と、言葉を濁さねばならないのは、その象徴として「吾妻ひでお」という、その「純」なもののウラにしっかりナニな部分を内包したキャラクターを使用していたということがあるのであるが。
 実際、イマドキの若い人に「あのころの吾妻ひでおは『最強究極絶対不滅純情可憐聖俗合わせ持つ美少女』を描いていたのだ」と言っても信じてもらえないかもしれない。

 ま、それはさておき、武田さんの「権利」に関する話はためになるし(『王立』も『ナディア』もガイナックスが権利を持ってないってのには驚いた)、ゼネプロからガイナックスへ至る険しくも楽しい道程は、これまでいろいろ書かれてきたものを思いだしながら読むとある意味感動的ですらある。
 けど、私が一番ツボにハマったのは次のくだり。

> もちろんキャラクターは売りたい。しかし、いかんせん、そのう、なかなか難しいんですよ。たとえば今“萌え”の路線が流行っているからといって、そういう作品がガイナックスでつくれるのか。何回挑戦してもそれは無理だろうと。妹が何人も出てきて「お兄ちゃーん」とかいっている作品を、ウチがつくれるかというとそれは無理だと思います。
 (中略)
> 山賀なんかは「王立宇宙軍」に出てきたリイクニが美少女だと思っていたくらいで、感覚はずいぶんあやしい。「おまえそれはないだろう」(笑)。確かに乳は揺らしてましたけどね。「トップをねらえ!」でも、最初はずいぶんと乳を揺らしている女の子が出てきましたけど、結局山賀がつくった作品の世界に監督の庵野がのめりこんで、とてもハードなSF作品になった。あの作品の場合、そのバランスで絶妙に面白くなった。作品をつくるということはそういうことだと思うんですよ。会社としてこの路線で行く、と考えても結局つくりたいものしかつくれない。

 「アヤナミは萌えキャラちゃうんか」、というツッコミは妥当ではあるまい。一見かわいらしいキャラデザインの美少女になら誰にでも萌えるファンにとっては『エヴァ』のキャラも『シスタープリンセス』や『らいむいろ戦記譚』の妹キャラも全部いっしょくたなのかもしれないが(でも本当に「妹ブーム」なんてあるのか)、やっぱり「背負っている物語」が違うのである(設定の多寡ではない)。
 陳腐な言い方になって申し訳がないのだが、「ドラマ」ってのはそこに「人間」がいなきゃどうしようもないのだ。「人間が描けなければドラマにならない」というのは否定のしようがない事実なんで、そうでないアニメや映画に魅力は生じない。ドラマのない作品にも魅力があると思っている人たちは実は作品以外のものを見ているので、それは全然作品を誉めてることにはならないのである。

 も一つ笑ったのが、注釈に付いてた「萌え」の解説。

> 『萌え』

> '90年代中盤から後半にかけておたく文化の中で生まれた用語。誕生当時は漫画やアニメ作品、ゲームなどにおける少し変わった、「なにか心にひっかかる」キャラクターやストーリー、世界設定などに対して用いられていたが、やがてキャラクターの魅力をあらわす用語として定着した。一応はアニメ、漫画作品の年少の美少女キャラクターに対して発生する恋情、もしくはキャラクター設定に関する特定のバイアスに対して使用される用語ではあるが、その概念は完全に固定されていない。たとえば『ドラえもん』におけるヒロイン、しずかちゃんを「萌えキャラ」と表現して良いか否かなどの命題は、人それぞれに解釈が存在する。

 「なにか心に引っかかる」とは随分微妙な言いまわしだけれど、対象についてじゃなくて、萌えてる本人の一つタガがふっとんんじゃってる状態を表してる部分もあるんじゃないですかね、これには。いや、若いアニメファンも結構見てるけど、「萌え」なんて用語使ってる人間って、イタイ中でも最大級にイタイ人たちだけですよ、ホント。やっぱねえ、マトモな神経持ってる人間なら、たとえ仲間うちであっても他人に理解できる言葉を使いますから。
 あと、「しずかちゃん」の件ですが、原作後期の絵柄のしずちゃんとか、渡辺歩作画監督のしずちゃんならまあ萌えるってのも分からなくはないんですよ。けど、ほかのはどうなんですかね。たとえば冨永さん作画のしずちゃんじゃないと萌えない! なんてんだったら、それは確かにちょっとねえ、どういう人ですかアンタは、と言いたくなりますが。


 今日も終日雨。
 残業で帰宅はまたまた10時過ぎ。帰りが暗くなると、バスの中でも本が読めなくて本当に退屈してしまうのである。今現在、私の主要な読書時間帯は、食事中とトイレ中と入浴中とこの通勤時間帯なのだから、日の明るいうちに帰りたいものなんだが。いや、残業も1時間くらいなら文句ないんだけど、恒常的に2〜4時間ってのはあんまりだがね。
 ボーナスも今度から下げられるしなあ(額面は上がるのだが、税金が余計にかかるので実質目減りなのである。なんでこんなインケツなことしてくれるのか)。労働意欲を欠けさせることばかりどうしてするのかな。


 森達也『放送禁止歌』(光文社/知恵の森文庫・680円)。
 著者はテレビドキュメンタリーの監督である。オウム真理教事件のドキュメンタリーである『A』の監督さん、と言えば、ああ、と思いだされる方もおられようか。
 本作は、タイトルにもある通り、いったん発売されながら、放送には「不適切」とされて今や耳にする機会の失われてしまった歌謡曲について、その「放送禁止」に至った顛末をテレビ番組にした時のメイキング本である。
 岡林信康『手紙』『ヘライデ』『チューリップのアップリケ』『くそくらえ節』『がいこつの歌』、三上寛『夢は夜ひらく』、頭脳警察『世界革命戦争宣言』、丸山明宏『ヨイトマケの歌』、北島三郎『ブンガチャ節』、なぎらけんいち『悲惨な戦い』、高田渡『スキンシップ・ブルース』『自衛隊に入ろう』『生活の柄』、山平和彦『放送禁止歌』『大島節』『月経』、ザ・フォーク・クルセイダース『イムジン河』、高倉健『網走番外地(1965年版)』、泉谷しげる『戦争小唄』『黒いカバン』、赤い鳥『竹田の子守唄』……。
 さて、これらの曲を実際に聞いたことのある世代は40代以上だろう。
 私とて、遠い記憶の彼方のものが殆どで、岡林信康のものにいたっては、一曲も聞いたことがない。ただ、これらの曲が「放送禁止歌」であるという「知識」は持っていたつもりだった。その「禁止」された理由も、性的な表現や差別的な表現が引っかかったんだろう、と漫然と考えていたのである。
 問題はその「引っかかった」というのが「何に」ということである。
 多分、たいていの人が「放送コード」というものがテレビ局の内規か何かにあるものだと信じていると思う。ところが著者は、取材の過程で「そんなものはない」という事実を発見してしまうのだ。
 一応、「規制」の主体となるものとして、民放連が1959年に発足させた「要注意歌謡曲指定制度」というものはある。しかしこれはただのガイドラインに過ぎず、強制力はないばかりか、1983年に廃止されてもいるのである。更に言えば、実際に「放送禁止」されている『網走番外地』『手紙』『チューリップのアップリケ』『イムジン河』『自衛隊に入ろう』『竹田の子守唄』などはこの一覧表に全く記載されていない。また、「どこか」から「糾弾」があったという事実もない。
 要するに「放送禁止」の実態は、放送局側の「疑心暗鬼」に他ならないのだ。
 「この曲は、もしかしたら放送しちゃヤバいんじゃないか」。
 その「思いこみ」が勝手に「放送禁止歌」を作りあげていったのである。

 「傷つく人の気持ちを考えて」とは差別を問題とする人権派の人たちがよく口にすることではある。しかし実のところ、放送業界での「禁止用語」というのは単なる言葉狩りにしかなっていない。『手紙』などは歌詞を読めばどう解釈したところでこれは「差別に対する怒り・告発」としか読めまい。それが「放送禁止歌」になってしまう点に、現実として差別を温存する土壌が存在しているのである。
 「糾弾」を行っているとされる某団体は、よく「文脈を捉えて批判するのならともかく、安易な言葉狩りはしていない」と主張している。本書でも、著者の森さんがその団体の役員の人に「放送で○○・○○という言葉(最大級の差別語とされているもの)を使っていいですか?」と質問したところ、「使い方には留意してください」と了承している(実際の放送には使用されず)。
 けれど、その団体が放送局の「勝手な自主規制」について積極的に改正を求めたなんて話は殆ど聞こえてこない。某団体は、『手紙』が放送禁止の憂き目にあっていることに対して、果たして抗議の姿勢を示したことがあったのだろうか?
 更に言えば、いつぞやの某作家の断筆に関する討論番組で、当時のその団体のトップの人が「○○・○○という言葉は聞くだけでイヤだ」と発言したのを私はしっかり覚えているし、録画もしている。文脈どころか、それは「発言」自体を封印させかねない「圧力」であり、「言論統制」以外の何物でもなかった。
 こんな態度で、どうして「表現の自由を脅かすつもりはない」などと言えようか。結局あの団体も一枚岩ではなく、人によって時によって言ってることがコロコロ変わるのである。放送局側が難癖つけられることを恐れてコトナカレに走るのもそこに原因がある。
 放送局側の弱腰について、糾弾はされてしかるべきだろうが、一番の問題は「被害者ヅラした加害者」である某団体であろう。過度の糾弾がかえって差別を助長し、わけのわからない後続の糾弾組織(「かわいいコックさん」まで黒人差別だなんて言ってるバカ親子とかな)を乱立させた原因になっていることを彼らは少しは自覚しているのだろうか。
 文句があるなら、「放送禁止歌などを想定している放送局を糾弾する」声明でも発表してからものを言え。

 最後に、岡林信康の『手紙』の歌詞をここに引用する。私の意見が間違いと思うのなら、まず、この歌詞に対する批評から始めてもらいたい。

> 私の好きな みつるさんが
 おじいさんから お店をもらい
 二人いっしょに 暮らすんだと
 うれしそうに 話してたけど
 私といっしょに なるのだったら
 お店をゆずらないと 言われたの
 お店をゆずらないと 言われたの

> 私は彼の 幸せのため
 身を引こうと 思ってます
 二人はいっしょに なれないのなら
 死のうとまで 彼は言った
 だからすべて 彼にあげたこと
 くやんではいない 別れても
 くやんではいない 別れても

> だけどお父さん お母さん
 私は二度と 恋はしない
 部落に生まれた そのことの
 どこが悪い どこがちがう
 暗い手紙に なりました
 だけど私は 書きたかった
 だけど私は 書きたかった

2002年07月04日(木) 丼より皿/『快傑ズバット大全』(ブレインナビ)ほか
2001年07月04日(水) 喉が異常に乾くよう/DVD『少年ドラマシリーズ ユタとふしぎな仲間たち』ほか



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