無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年02月27日(木) 彼、行くは星の大海/『フルーツバスケット』11巻(高屋奈月)/『てんしのトッチオ』(鳥山明)

 新聞をみてギョギョッと(つげ義春か)したのが次のニュース。
 「ハウステンボス」が長崎地裁に会社更生法の適用を申請して、倒産しちまったのた。負債総額は約2289億円だと。開業からわずか11年。ちょっと早過ぎだねえ。
 つい何日か前、タクシーに乗ってて、世間話しながら「リゾート施設もどんどん潰れてますけど、『ディズニーランド』と『ハウステンボス』だけは大丈夫でしょうねえ」なんて言ってたのだ。
 大丈夫どころか、記事によると「約2250億円の初期投資が負担となり、開業時から赤字続き。バブル崩壊により、見込んでいた高級別荘などの販売不振も経営を圧迫。平成12、13両年の2度にわたり、現在のメーンバンクのみずほコーポレート銀行の前身、日本興業銀行(当時)から総額533億円の債権破棄を受けたり、13年には関連施設の「オランダ村」の閉鎖など、リストラ策を進めていたが、昨年秋以降も売上高、観客数とも大幅に減少、再建は軌道に乗らなかった」んだそうな。タダ券や安売り券を乱発してたのは知ってたけど、てっきり「余裕があるから」だと思ってたよ。だって、招待券で行ったヤツがリピーターになる率って、すごく低いと思うんだが。効果ないことしてどうすんの(-_-;)。
 しかし、しかしだよ、売り上げ伸びずっても、今でも年間200億円は稼いでるんだよね、リゾート施設ん中じゃ、ディズニーランド、USJに継いで全国3位の売り上げなんだよ。それで維持ができないってのは、いったい何よ。1年間、維持するのに300億もかかるような施設を作ったこと自体に、問題があるってことじゃないのか。
 「赤字のために新しいアトラクションを導入できなかった」ことも集客減の一因、ということだけれど、売り上げでなんとかしようってこと自体、考えが浅いよなあ。初期投資の段階で、そこまで資金集めとかないと経営自体成り立たないと考えなかったのかなあ。
 でも、倒産したとは言え、そんじょそこらの遊園地とはワケが違うのである。再開発する余力だって、長崎県にはないのだ。是が非でもハウステンボスを再建する以外に方法はないのだ。運営はこのまま続けるということだし、まだ、遊びに行くチャンスは充分あるのである。しげもあそこのホテルには「死ぬまでにいっぺんは泊まる」と言ってるし、九州の発展に協力する意味でもそのうち行くことにするかなあ。
 そう言や、知り合いでハウステンボスに就職してるヤツ、結構いるんだよなあ、みんな羨ましがってたけど、リストラ候補になんか挙がってないかなあ。


 やっぱり宇宙って「遠い」んだなあ、という感慨(「広い」んじゃなくてってとこにご注意)。
 かつての宇宙少年が、その打ち上げをキラキラ輝く瞳で見上げていた(別に現場にいたわけじゃないが)、あのパイオニア10号との交信がついに途絶えたのである。NASAが25日に「パイオニアの最後の交信は1月22日。地球から約122億キロ離れた地点からで、その後は何の信号も得られなくなった」と発表した。
 打ち上げは1972年。それから31年になる。冥王星の軌道を越えたのは何年前のことだったか、太陽系を脱出するのでさえ、これだけの年月を要したのである。さて、他の星系に辿りつくのにいったい何万年、何億年かかるものやら。
 地球外知的生命(ET)へのメッセージを搭載したことで有名なパイオニア10号だけれど、常識で考えれば、海に砂粒を投げて「誰か拾って!」と叫ぶようなものだ。こんな計画にオーケーサインが出たこと自体、日本だったらちょっと考えられないことだ(もちろん、惑星の様子を探査する目的もあったのだけれど)。
 やっぱり、あちらの人たちは「奇跡」を信じているのかなあ、と思う。「神」を信じたいのかなあ、と思う。もし、この科学の時代にも「神」が実在するとしたら、それを宇宙の深淵に求めるしかないからだ。
 子供のころは無邪気に「宇宙人がいたらなあ」と憧れていたが、NASAにも政治的、宗教的思惑があるのだなあ、と気づいたときから、私の宇宙開発に対する想いも半減してしまっているのである。
 なんだかねえ、ずっと昔、彼女と一緒に行った海岸でさ、二人で貝殻に名前を並べて書いてよ、それを埋めてすっかり忘れてたのが30年ぶりに出てきたような恥ずかしさを感じちゃうんだよねえ。
 いや、これはただの例えで、そんなことは全くしてませんが。
 

 今日で「BSマンガ夜話」は最終日、取り上げられたのは、小山ゆうの『あずみ』。
 みんな誉めるねえ。なんで?
 小山ゆうのマンガ、ウチには結構あるんだけれど、これ殆ど全部、しげが結婚前から持ってたやつである。『がんばれ元気』『スプリンター』と言った代表作はもとより、『愛がゆく』とか『チェンジ』『いざ竜馬』『サムライ数馬』『風の三郎』なんてマイナーなものまで集めていたのだ。私は『おれは直角』しか持ってなかったのに。
 それが、『ももたろう』で小山ゆうを嫌いになってからは、全然買わなくなってしまった。『あずみ』はちょっと面白そうということで買い始めていたが、これも飽きて読まなくなっている。しげが好きなのは「少年マンガ」の小山ゆうであって、青年マンガのそれではないのである。
 でも私は小山ゆうには殆どと言っていいほど引っかからなかったので、『あずみ』も全然面白くないのである。従って、レギュラーやゲストの方々が口々に称える魅力というのが全くピンとこない。だいたいしかわじゅん、オマエ、「さいとう・たかをは擬音の字体を何十年も変えてない、これはマンガ家として怠慢」とかさんざん貶してたくせに、そのさいとう・たかをのアシストで、全く同じ擬音の字体を使ってる小山ゆうを貶さないのはなぜだ。私にゃ、マンガ表現としては『おれは直角』のころから一歩も進歩してない(逆に退歩している)としか見えない小山ゆうを口が裂けても面白いとは言えんぞ。
 岡田斗司夫さんが「すげえマンガが始まったっていうんで読んでみたらホントに凄かった!」とすごく喜んでるけど、その連載第一回、二回を私も読んでるんである。なのに全然インパクトを感じなかった。っつーか、どんな始まり方だったか、今、思いだそうとしても全然浮かんでこない。それは多分、小山ゆうさんの描く時代劇マンガが、基本的に時代劇になってないからだと思う。マンガ、あるいは劇画の顔で、日本人の顔になってないんだよねえ。だから和服を着せても全然似合わない。ギャグならともかく、シリアスじゃあどうにも違和感だけが先に立ってしまうのだ。これは、師匠のさいとう・たかをも時代劇が描けなかったのと共通しているような。
 でも、そういう視点では読んでないからみんな楽しめるんだろうなあ。映画の方は生身の人間が演じるから、どんなふうになるか一応見てみたくはあるんだけど。


 いよいよ明後日はわざわざ東京まで芝居を見に行くのである。
 さあ、今月はオカネが続くのか(^_^;)。
 仕事を終えてそのまま空港に直行しなきゃならないので、もう今日のうちから準備しないと間に合わない。
 ビデオカメラを持っていく、と私が言うと、しげが「なんで? 荷物になるやん」と文句を言う。
 「記録になるからだよ。何十年か経って見てみると懐かしいやろ。オマエだって、オレが子供のころの8ミリ見たら喜ぶやん」
 「だって、それはアンタが今ここにいるし」
 いたらなんだというのだ。口をモゴモゴさせるばかりでハッキリとモノを言わないので、真意が全然わからない。要するに私がビデオを振り回す様子がみっともないとかそんな理由だろう。それにそのビデオにはしげは写っていても、私は写っていないのである。
 だったら自分でも撮ればいいのに、それはしたがらないのだから、結局はただのワガママなのだよなあ。


 マンガ、高屋奈月『フルーツバスケット』11巻(白泉社/花とゆめコミックス・410円)。
 十二支の話はどうでもよくて、花ちゃんが好きで読んでるってのはファンの人から見たら叱られちゃうかなあ(^_^;)。だもんで、今巻が十二支も全員揃って、しかも慊人の正体もわかってって、一応のクライマックスになってるんだけど、私は「ふ〜ん」ってなもの。
 なんだかなあ、『カレカノ』もそうだけど、最近の『花ゆめ』系マンガ、傷ついた男の子の心が乙女の優しさで癒されるってパターン、多くなってないか。男の作家が女にそういう理想<マドンナ>像を求めるのはまあ、男のサガだから仕方がないとしても、女の作家がそれを描くとどうも「自画自讃」的に見えてしまうのだよねえ。
 もちろんヒロインの透は、ただの純情可憐なオトメではなく、なにか心に「闇」を持っていそうではある。けれど、最終的に十二支のみんなが、慊人や夾も含めて透に呪いを解かれ、救われるのだとしたら、それはただの宗教画にしかならないのではないか。透をマグダラのマリヤにすることは、すなわち、そこで語られる物語が「神話」に過ぎなくなることであり、結果として「人間」のドラマを喪失させることになる。
 慊人は「神」を騙る。この「神」は、もちろん否定されるべき神だ。しかし、透は慊人を否定することなく、「救い」のみを考える。「総てから解放された皆さんが心から泣き心から笑える日が来るのならば罰が本当に下るとしても呪いを解きたい」。明かにこれはサクリファイスである。ここに「罰」の概念を持ち出してきさえしなければ、素直に感動できるところなんだけれどもなあ。
 既にキャラクター出しすぎて、描き分けが難しくなって来てるし、ストーリー構成もあっちに行ったりこっちに行ったり。作品全体の魅力が随分薄れてきてるんだけれど、大地さんに続きをアニメ化してもらうためにも、失速しないで早いうちに完結させてほしいものである。……長引かせると破綻すると思うぞ、このマンガも明らかに「エヴァンゲリオンチルドレン」なんだから。


 とりやまあきら さく・え『てんしのトッチオ』(集英社・1785円)。
 帯に「鳥山明『絵本』に初挑戦!!!」と麗々しく描かれてるけれど、どこの本屋に行っても置いてあるのはコミック本コーナーで絵本の棚には並んでない。仮に絵本のコーナーに置いたとしても、さて、これが長く読み継がれるものになるかどうか。
 絵本の世界は超々ロングセラーがザラにあることである。我々が子供のころに読んだことのある『ぐりとぐら』や『だるまちゃんとてんぐちゃん』なんかが、未だに絵本コーナーの真正面に並べられてたりしてるのである。もちろんその間も新作は数限りなく描き継がれているのだが、その淘汰の速さも尋常ではない。絵本は単価がバカ高いから、子供が「買って」と言ってもそう簡単には買ってやれない。必然的に、「親」が面白いと思ったもの、子供に読ませたいものばかりが残っていくことになる。絵本の歴史の中でも「進化」がないわけではないのだが、やはり基本的に絵本の世界は極めて保守的なのである。
 で、この『てんしのトッチオ』だが中途半端に保守的なのだ。鳥山明は子供っぽいから絵本に向いてるんじゃないかと思ってる人がいるかもしれないが、ことギャグに関する限り、子供っぽいんじゃなくて下らないだけである。視点はやっぱりオトナのものだ。
 トッチオが地上の動物たちの願い事をかなえてあげようとして、全く役に立たない、というのはまあマンガでも絵本でも定番の展開だけれど、ハムスターにスクーターを出してやるとか、干上がった沼にペットボトルを出してやるとか、羽を怪我したペリカンに紙飛行機を出してやるとか、アイデアが陳腐を通りこしてどうしようもないのである。「とりやまあきら」の名前が無ければ、ボツになっているに決まっている。
 最後にトッチオがホントにみんなの役に立つ、という結末も定番だけれど、別にトッチオがこれからも失敗しないという保障ができたわけではない。全然、物語としてのカタルシスも無いのである。
 作者本人は一所懸命描いたつもりかもしれないけれど、絵本のレベルとしては5点だ。世の中にどれだけ工夫を凝らした、創意に満ちた、斬新かつ普遍的な絵本があまたあるか、それを知ってから描いてほしかったものだね。同じマンガ家の描いた絵本なら、絵本の体裁を無視してただの大型マンガ本として描かれている唐沢なをきの『バラバラくん』のほうが、「別に絵本の描き方なんて知らんも〜ん」って態度が潔くってよっぽどいい。
 みんな、『トッチオ』買うカネがあったら『バラバラくん』を買って子供に与えてオタク教育の萌芽とするのだ。マジでその方がいいと思うぞ。(2003.3.28)

2002年02月27日(水) さらばウルトラマン/『よろずお直し業』(草上仁)/『クロノアイズ』5巻(長谷川裕一)ほか
2001年02月27日(火) 毛の話/『オトナでよかった!』(唐沢よしこ・唐沢なをき)



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