無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年01月24日(金) そのうち隔離されるかな/アニメ『ユキの太陽』(宮崎駿)/『カルト王』(唐沢俊一)

 結局、三日も仕事を休んでしまいました。
 やっと出勤してみたら凄いことになってましたねえ。
 職場に風邪引きさんが続出してるんだもの。
 私とコンビ組んでる同僚で、叩いても刺しても死なないと評判の(死ぬってば)ヒトまでが風邪引いちゃってたことはこないだも書いた。今日、職場に着くなり、休んでたお詫びをしようと彼のところに行って、その背中に咳込みながら、「げほげほ、どうも、長らぐ休びばじで、申し訳ありばせん」と声をかけたところ。
 振り返りざまに私よりもはるかに異常な鼻声で、「だい゜じょう゜ぶです゜か゜?」。
 いや、いくらなんでもここまでひどくはないが、すごいカスレ声である。大丈夫かって、こちらが言いたい(^_^;)。
 「……ばだ、治られでないんですか?」
 「ごどじの、がぜわ゜、なか゜びぎばずね゜え……」
 いや、もうそれ以上は喋らないでほしい。
 ちょっとビックリしながら自分のデスクに向かうと、隣席の女性の同僚が、眼まで隠れそうなデカいマスクをしている。
 「……あなだぼ、お風邪?」
 「え゜え゜、な゜んが、ごえ゜が出な゜ぐな゜っぢゃっ゛で……けふっ」
 そりゃ聞いててわかります……(・・;)。
 そこへ、私の所属する部署の上司の女性がツカツカと近づいて来た。
 「あ゜の゜、き゜ょう゜のれ゜んら゜ぐな゜んでずげど……ずずっ」
 ひ、ひええええ! わ、私の関係者が軒並みみんな風邪を引いているうううう! \((;◎_◎)/!
 これはもう、明らかに病原は私だ。
 なんだか、ポーの『赤死病の仮面』にでもなったような気分である。
 あるいは星野之宣の『幼女伝説』かな。「カンタレッラ!」ってやつ。……シャレにならんわ(ーー;)。
 考えてみたら、病気慣れしている私(^_^;)をこれだけ苦しめてる風邪だもんなあ。日頃丈夫な人たちまで罹っちゃうのは当たり前なのかもしれない。
 日頃は厚顔無知な私であるが、ここ最近、こんなに身の置き所に窮したことはない。すみません、移すつもりなんてなかったんですよう、許してください。m(j◇j)m
 三日も休んだのだから、仕事の面で迷惑をかけた相手は同僚は10人を下らない。もう午前中はずっと平謝りしまくりである。
 プロジェクトの中には、最後の詰めを、責任者である私が放棄したものまである。
 「……何とかやっときましたから」
 と言われた時の同僚の唇の端が微妙にケイレンしていたように見えたのは気のせいかしら。そうよ私は木の精。……現実逃避してんじゃねえ(ーー;)。

 とかなんとか言いながら、結局半ドンで帰っちゃいました(人でなし)。
 久しぶりに仕事に出て来たんだし、ちょっとがんばろうと思ったんだけれど、午後になったらまた咳が止まんなくなっちゃったし、目眩と吐き気で苦しくなっちゃったのよ。
 午後は会議がある予定だったのだが、とても持ちそうにない。
 検査結果も聞かねばならないし、病院に行くことにして、また各方面に頭下げ。


 先日、博多駅の紀伊國屋から電話連絡が入っていた。
 「DVDの『あずまんが大王』の3巻と、『プリンセスチュチュ』の2巻が入荷しておりますが……」
 当然、取りに行かなきゃならないんだが、カラダがきついんで来月回しにしようかとちょっと考える。けれどこれをやると、来月予約しといたブツとかち合っちまうのである。しかも、来月には『黒澤明ボックス』3巻&『必殺仕掛人ボックス』1巻という大物が控えているのだ。
 なんでそんな無謀な予定を立てていたかというと、来月はボーナスが支給される予定だったからである。けれどこの不況で、先日ボーナスカットが通達されている。……予約入れたあとでいきなり、ンなことするなよう(T∇T)。……と怒ったところでそりゃ会社の責任じゃない。いや、経営不振は上司のアホのせいなんだが。でも、結局は零細企業に勤めた私が悪いってことなんだよな。来月は生活を切り詰める予定。とりあえずは昼飯抜きだ(;_ _;)。

 ……てなわけで、紀伊國屋に向かったんですが。
 しげは昼間は寝ているので、車を呼びつけるわけにはいかない。仕方なくバスに乗って博多駅に向かうが、ウチの職場、マジで田舎にあるので、博多駅まで乗り換えて1時間かかるのである。
 病み上がりで田舎道をガタゴト揺られてたら、病状が悪化するのは当たり前であろう。紀伊國屋に着いた時には息は上がり、髪は乱れ、なんかすごいことになっていた。
 「ず、ずびばぜん、ぶ、ぶりんぜずぢゅぢゅをぐだざい」
 ……よく警察に通報されなかったものである。

 病院の診察結果、やはり喉が炎症を起こしていたらしい。
 「これから治っていきますよ」と医者が軽く言ってくれたが、ほんまやろか。
 なんか医者に行くほど病状が悪化してるような気もするんですけど。


 さて、今日はアニメオタクにはぜひとも見逃せないテレビ番組がある。
 『千と千尋の神隠し』……じゃなくて、その直前の特番で、宮崎駿の幻の監督作『ユキの太陽』のパイロットフィルムが放映されるのだ。
 宮崎駿のフィルモグラフィーにはしっかり記載されているのだが、さて、長年眼にする機会はなかった。パイロットだから、そんなに長いものは期待できないが、それでも見られるものは画面に齧りついて見る。
 紹介のところで、「宮崎監督のデビュー作は一般には『未来少年コナン』と言われていますが……」と説明してたのはちょっと舌足らず。
 名前は出していないが、『ルパン三世』の旧テレビシリーズを宮崎さんが高畑勲さんと「Aプロダクション演出グループ」の名で監督していたのは今や有名である。監督デビューという意味でなら、こちらの方が早い。ちゃんと確認しとけよなあ。
 で、『ユキの太陽』の出来である。
 原作はちばてつやであるが、内容は日本版『アルプスの少女ハイジ』といった趣。もともと孤児が明るく元気に生きるってのは、庶民派のちばさんの世界なんだけど、同じ庶民派でも宮崎さんの世界とはやはり肌合いが違う印象である。ちばさんには独特の泥臭さがあるんだけど、それが消えちゃってて、やっぱり表現にキレイゴトが混じっちゃってるのね。キャラデザインがすぐに崩れて、東映動画顔になってしまうんだけど、ちばキャラは子供でもそんな媚びた笑顔は見せねえぞ、もっとたくましいやって感じかな。
 大塚康生さんの作画監督なら、こうもナマヌルイ感じにはなってないんじゃないかと思って、スタッフリストを調べてみたけど、やっぱり大塚さんはこれには噛んでなかったみたいである。いや、ユキがちょっと「ルシファー飛び」っぽい動きしてたからね。
 大塚さんも、そういう宮崎さん的なマンガチックな動きを描くこともあるが、もともと『わんぱく王子の大蛇退治』のアクル対スサノオのようなシャープでキレのいいアクションの作画が得意なのだ。どっちかと言うと、作画的にはこれ、大塚さんが監督した方がよかった企画なんじゃないかなあ。まあ、大塚さんは根っからの職人だから、なかなか監督は引き受けなかっただろうけれど(あれだけの仕事をこなしていながら、監督作は『草原の子テングリ』と『東海道四谷怪談』の2本しかないのである)。
 もしもちばてつやのファンがこれを見たら、イメージの違いに愕然としちゃうんじゃないかなあ。もしかしてこれがパイロットフィルムだけで終わったのは、スポンサーの中にちばさんのファンがいたせいかもね(^o^)。

 続けて、『千と千尋の神隠し』も見てみたけど、どうですか、赤かったですか。私にはよくわかんなかったんですが。

 晩飯は精力をつけようと、「さかい」で肉を食う。
 ここ数日、うどんばかり食ってたから、胃の方もやや重たいモノを欲している感じだ。今日ばかりはしげの趣味に付き合う形である。


 映画監督の松田定次氏が、20日に老衰のため死去していたことが判明。享年96。
 年齢的には大往生。ていうか、死因が「老衰」っての、久々って気がする。宇野千代さんも確かそうだったような気がするが、有名人ではそれ以来じゃないかな? 
 子供のころ、土、日の昼から夕方にかけて、テレビで『○曜時代劇』なんて番組があってたが(最近は『サスペンス劇場』の類に圧されて、あまりやってない)、監督のクレジットを見ると、たいてい松田定次であった。いったい、今までに何度『水戸黄門』(1960)を見たか知れやしないが、その割りにストーリーの大半を忘れてしまっているのである。
 弟さんのマキノ雅弘さんの映画には、どこかギラギラとした才気が感じられたものだったが、松田さんの場合は悪く言えば大味ってことになるんだろうけれど、いかにも映画を堪能したって感じの「大作」感を味わえたものだった。
 オールスターキャスト映画を任されることも多く、「東映創立○○年記念映画」の類は、たいてい松田さんが監督していた。

 しかし、私にとって松田さんは「時代劇の人」というより、「ミステリの人」の印象が強い。理由は言わずもがな、『多羅尾伴内』シリーズと『金田一耕助』シリーズの二つを立ち上げたのが松田さんだったからである。もっとも、その映画の存在自体は情報として知ってはいても、実際に現物にお目にかかれたのは随分トシを食ってからであったが。
 「あるときは片目の運転手……」って多羅尾伴内の名ゼリフ、林家木久藏のものマネでしか知らない人も多いんだろうなあ……。いやいや、そのものマネ自体、木久藏さん、やらなくなって久しいからもう、なんのことやら(-_-;)。
 かろうじて、小林旭によるリメイクや、小池一夫・石森章太郎によるマンガ化で、多羅尾伴内の存在を知っている人もいるかもしれない。しかし、本家本元の『多羅尾伴内』とはやはりテイストがかなり違っている。

 映画史的な説明としては、『多羅尾伴内』シリーズは、戦後しばらく、GHQの検閲によって時代劇映画の製作が禁じられたために、戦前の時代劇映画の制作者たちが「“現代”を舞台に“時代劇”を作った」とされている。
 多羅尾伴内は丸メガネに口ヒゲ、いつも背中を丸めてヨチヨチ歩いている見た目はいかにも頼りなげなしがない老私立探偵である。事件が起こっても右往左往、まるで役に立っているようには見えない。しかし、実は彼の正体はかつて帝都を騒がした怪盗・藤村大造である。今は改心し、自分の汚れた魂を救ってくれた恩人の警官が殺された事件の謎を追って、自ら「正義と真実の使徒」と名乗る。
 事件を追う間、様々な変装をし、最後は自らの正体を明かして、犯人たちを逮捕し、警察に引き渡す。確かにそれらのケレンぶりを見れば、まるで『遠山の金さん」であって、「時代劇現代版」と言われるのもわかりはする。
 しかし、松田定次監督による『多羅尾伴内』の初期4作品、『七つの顔』『十三の眼』『二十一の指紋』『三十三の足跡』を見てみると、巷間言われるように、時代劇のプロットを現代劇に持ちこんだためにかなり荒唐無稽な内容になってしまった、との批評が必ずしも当たってはいないことに気がつく。
 例えばよく槍玉に挙げられる「主演の片岡千恵蔵がいくら変装したって、見りゃ一発で千恵蔵本人って分るじゃないか」というツッコミ。でもその七変化、観客から見れば毎回千恵蔵だってことは一目瞭然なんだけれども、ストーリーの上では、その変装した姿の伴内に出会うのはそのときが初対面の人間ばかりなんである。つまり映画の中の七変化は「多羅尾伴内の正体を隠すため」であって、「片岡千恵蔵の正体」を隠すためのものではない。
 演技の質も、確かにラストのキメの部分では千恵蔵御大、大仰な演技をしてるんだが、普段は実に落ちついた、リアルな演技を披露している。千恵蔵さんの演技力って過小評価されてるって思うんだけど、いっぺん『赤西蠣太』や『血槍富士』、『十三人の刺客』あたりをを見てみたらどうか。

 松田さんから話が離れてしまったが、言いたいことは時代劇の監督と言っても決してパターンに流されただけの人ではなくて、細かい描写をきちんと積み重ねていくタイプの人だったってことだ。
 だからこそ、アニメ『佐武と市捕物控』に「監修」として迎えられたのだと、今にして思う。


 唐沢俊一『カルト王』(幻冬社文庫・600円)。
 単行本は持ってるけど、また買いました(^^*)。
 単行本の出版は1997年だし、この日記に感想を書いたことはないから、まあいいでしょ。
 唐沢さんも文庫版あとがきで書かれている通り、これは唐沢さんが「ライター」から「作家」に移行して行く過程の原稿が集められている。要するに、雑誌の注文に応じて原稿を書いていた時期から、その注文は注文として、自分の志向を原稿に反映させられるようになった時期への転換の様子が見られる、ということである。
 もっと簡単に言っちゃえば、「ネタ中心」から、「ネタを自分の眼で分析」へ変化していったってところだろうか。いや、もちろん初期に分析がなかったわけではないが、それは編集者の「こう書いてほしいだろう」という意向を察したような文章なのだ。

 例えば、冒頭にある1992年以前の原稿であろう「僕の周りにやってきたアヤシゲな心霊家たち」にはこんな文章がある。
 「心霊家の人々は自分を見ない。多分、欠点だらけの自分に面と向かうのが恐ろしいのだと思う。そして、何があろうと決して自分を責めない。(中略)これは卑怯な生き方である、と思うのである。オカルトとは自分の心の中にある本当の自分自身と出会う道だ、とよくいわれる。しかし、人間である限り、どんな高僧、聖人であろうと、本当の自分の姿は多分正視に堪えないほどに汚れていて醜いにちがいない。神とは、その自分の姿に向き合う勇気を与えてくれる存在でなくてはいけないと思うのだが。(中略)僕が怒りを感じるのは、自分への正当化の手段としてオカルトを使い、それを悪用している連中である。」
 この分析・批評が、「ウソ」だと言いたいのではない。実際に唐沢さんが出会ってきた心霊家の人々がトンデモさんだらけだったのは事実だろうし、信仰のあるベき姿を当時の唐沢さんがこのように考えていた、というのもそのまま出ていると思う。義憤も当然あったろう。
 ただ、同時に、唐沢さんの心の中に、この自分の書いた文章に対する「自己批判」もあったにちがいないと思うのだ。
 なぜならこの文、あまりにストレート過ぎるのだ。
 芸がない、とか若書き、と言ったら失礼かもしれないが、しかしそれがおそらくは掲載誌の編集者の「意向」でもあったのだろう。「あまりふざけないでくださいね」という雰囲気を漂わせていたものであろうか。駆け出しのライターであれば、それに逆らって「おれの書きたいのはこんなんじゃないんだ!」とか言って卓袱台をひっくり返し(そんなものはなかったろうが)仕事をフイにするわけにはいかない。

 これが、数年経つとガラリと変わる。
 例のオウム真理教事件に絡めて日本のホモ文化を評した「やおい少女たちがオウム真理教に恋をする理由」では、それこそ「オカルトを悪用」しているあの団体について、唐沢さんは怒るどころか、「あやしげなものファンにとって、オウムはまことに魅力的に見えた団体だった」「オウム真理教という団体は、その悪趣味性ゆえに、すべての、日常に対し不満を持っている人間にとって、すさまじくオモシロイものであった」と書くのである。
 これは変節ではない。ましてや、唐沢さんがオウムのような犯罪組織を正当化するようになったわけでは決してない。自らの道徳観を優先するあまり、人間の「悪趣味」に惹かれる感覚を無視していけば、いつかそれは、人間の本性を否定し、自らの正義のみで他者を峻別し断罪するようなファシスト(藤子・F・不二雄の『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』ですな)になってしまいかねない。唐沢さんは、それを「作家」として「回避できるようになった」ということなのだ。

 あのとき(もう8年前だ)、日本中の人間がテレビに齧り付いた。
 そのときの我々は義憤だけであの事件を見ていたか?
 唐沢さんが言うように、みんな「オモシロ」がっていたのではないか?
 なにしろ私もあのときはついウッカリ江川紹子のファンになってしまい、著書を買い求め、更には自分の書いた戯曲の登場人物に江川さんの名前をモジって名前を付けてしまったくらいである(あほや)。
 まあ、私がファンになったのはオウム追究側の人だったから、なんとか人倫に反する形にはならなかったが、当時、「ジョーユーさんってちょっとステキ?」とか言ってたやおい少女たちは確かに存在していたのだ(私の前だから、少し遠慮気味な言い方ではあったが)。
 我々は「悪趣味」に惹かれる。
 「オウムと我々は、対極にいて、そして実はつながっている」という唐沢さんの言葉を、もっと多くのヒトが実感してくれないと、世の中「正義漢」ばかりじゃ息が詰まっちゃうのである。

 あと、江戸川乱歩について書いた「江戸川乱歩は本当に『猟奇的』な作家だったか?」は、乱歩を未だに読んだことがない人が、「乱歩ってどんな人?」と知りたくなった時に、まず読んでもらいたい名文である。
 作品そのものに当たるんならともかく、ヘタに映像化されたやつとか、文庫の巻末についてるような他の人の評論に先に当たっちゃうとねえ、乱歩の作品の表層だけしか見えないってことになりかねないんだよねえ。
 乱歩の二面性を作品から指摘することだけなら誰にでも出来るが、ちゃんと乱歩のハゲコンプレックスや、横溝正史の『犬神家の一族』を、乱歩が作品を読まずにタイトルだけで貶したエピソード(これは正史の『真説金田一耕助』で語られる実話であるが、これをネタにして乱歩を批評したのは、私の知る限り唐沢俊一さんただ一人である)に触れて分析を試みる、という視点は唐沢さんの独擅場である。
 ……創元推理文庫さん、っつーか戸川安宣さん、今度『乱歩』の20巻を出すことがあったら、唐沢さんに文庫解説頼んでよ。

 『カルト王』読んでたら、ほかにも書きたいこといっぱい出てくるんだけど、これもキリがないからこのへんで。
 ああ、時間の余裕があったら、マジで『唐沢俊一論』単行本一冊分くらいは軽く使って書きたいぞ。別に唐沢俊一信者ってことではなくて、現代思想史において唐沢さんが占める位置は正当に評価されなければならないと思うからなんだけどね。

2002年01月24日(木) オタクのハマリ道/アニメ『七人のナナ』第3話/『山本弘のハマリもの』(山本弘)ほか
2001年01月24日(水) せがた三四郎、落つ。/映画『疾風! 鞍馬天狗』



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