無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年01月17日(金) 言語作用としての2ちゃんジャーゴン/『POPEE THE PERFORMER ポピー ザ ぱフォーマー』(増田龍治・増田若子)ほか

 写真家・秋山庄太郎氏が16日に死去。享年82。
 死因は特に記事中に紹介されてはいないが、林忠彦賞の審査中に倒れたというから、脳溢血かなにかだろう。
 私は写真集の類はあまり買わない方で、たいていは企画モノである。
 この写真家、と目算をつけて買ってる写真集と言ったら、林忠彦さんにアラーキー、そしてこの秋山さんくらいしかない。もちろん買ったのは女優さんの写真集だったが(〃∇〃)。
 女優さんは基本的に「演技してナンボ」であるから、「動」の世界の人である。それを「静」として捉えようというのであるから、考えてみればこんなムチャな話はない。「静」でありながら「動」を感じさせるものを撮らねばならないからだ。
 あまりにも有名な秋山さんの原節子を撮ったポートレートだが、実はアレ、あまり出来がいいものではない。原節子の写真集の中で他のものと比較して見れば気がつくことだが、アレはキレイだけれども笑顔が固まっていて、自然な表情ではない。全体を通して見ると、アレだけ浮いているのだ。映画のワンシーンのスチールのほうがよっぽど原節子が生きている。
 でもそんなことは秋山さん自身が一番よく知っていたことだったろう。著書の中でも、誰を撮っていても「うまく撮れない」「チャンスを逃した」の繰り返しである。まさしく秋山さんは不可能に挑戦し続けていたのだ。

 ちなみに、その「有名な」原節子のポートレート、なんと佐々木倫子のマンガ、『動物のお医者さん』に登場している。
 漆原教授が密かに隠し持っていた写真を、ハムテルたちが「教授の昔の恋人?」と勘違いするのだが、真相がわかったあと、教授が「近頃の若いもんは原節子も知らんのか」と激怒するのだ(同感である)。
 その写真が秋山さん撮影のものであるということは、前で手を組んだポーズから察せられるのだが、残念なことに佐々木さんは絵がヘタなので、顔が原節子に全然似ていない(^_^;)。
 もっとも、どんな絵を描いたところで、「永遠の処女」(映画で結婚する役を何度も演じていたのにこう呼ばれてたってことが、スゴイよなあ)原節子に対する冒涜だって怒る七・八十代のファンは、今もいそうな気はするが。まあ、そういう人たちは『動物のお医者さん』どころかマンガ自体あまり読まないか。


 私の体調も全然回復しないが、しげもどうやら風邪を引いたらしい。
 と言うか、二、三日前から「気分が悪い」を繰り返していたのだが、今日になってようやく「これは風邪を引いてるのではないか」と気づいた、と言うのだ。
 呆れて、「お前、オレにバカって言われて怒るけど、やっぱりバカじゃん」って言ったら、「えへへ」と笑っている。どうやら毒が脳まで回っているらしい。
 今日も会議が長引いて、仕事もやたら入れられて、帰りが遅くなる。気分が悪くて私も倒れそうだ。
 それでもコンビニに寄って、栄養剤やら胃腸薬やらを買う。
 何本も買い込むのは、薬が切れると困るからではなくて、栄養ドリンク一本取ってみても、しげは好みがうるさくて「これは飲みたくない」とかワガママを言うからだ。栄養ドリンクの類は決して安くはない。余り安いやつだと効き目もなさそうなので、つい、一本300円とか400円とか、もちっと高いやつとか、高価なのを混ぜて買ってしまうが、そういうのをまたしげが遠慮もなく飲むんだよな。
 で、結果的に余った安いやつが私の分、ということになる。安くても全く効き目がないわけでもなかろう、とさっきと逆の考え方をして飲むが、これがポジティブシンキングというものであろうか(^_^;)。
 自暴自棄に近いかもしれんが。


 大修館書店『言語』2月号の特集、「遊びたがる言葉」に、ついに「2ちゃんねる」が取り上げられる。
 この雑誌、言語学の専門書なんだが、決してかたっくるしい記事ばかりでなく、大衆向けに読みやすい特集をたびたび組んでいて、毎号、実に面白いのだ。どうも全く売れてないらしいのが残念なんだけど。
 例えば、今号でも大のオトナが、『ドラゴンボール』のキャラクターはどのような言葉遊びで成り立ってるのか、なんてことをマジメにマジメに分析している。このギャップが面白いんだね。でも、普段マンガを読みつけない人がそういうことやるもんだから、結構引用を間違ったりもしてる(^_^;)。『クレヨンしんちゃん』の「運黒斎」って、字が違っとりますがな(正しくは「雲黒斎」)。

 それはそれとして、『「2ちゃんねる」におけるジャーゴン』と題して解説しているのは、メディア・プロデューサーの松本恭幸氏。
 「ジャーゴン(jargon)」とは要するに「専門用語」「術語」のことで、ある一定の職種、グループ内のみで使用されるコトバのことである。こういったジャーゴンはどの世界にもあるものだが(同人界の「ヤオイ」とかね)、「2ちゃんねる」用語の多くが、「意図的に誤字誤読や語尾を変形したもの」である点が特徴的であると松本氏は指摘する。
 例として挙げられているのが、「氏ね」「厨房」「がいしゅつ」「串(←プロクシーのことだったんだね。私ゃ今回初めて知ったよ)」「スマソ」「マターリ」「ドキュン」など。
 「がいしゅつ」については、ホントに「既出」を「がいしゅつ」と読み間違えたアホがいて、そこから流行して行った過程がある。松本氏は「意図的に」と言うが、もともとは単純な漢字変換のミスから使用されるようになったものがほとんどなのではないか。パソコンによるコミュニケーションでなければ、こういうジャーゴンは生まれなかったに違いない。最近も、2ちゃんをチラッと覗いてみたら、やたら「香具師」って出てくるんで、「寅さん関係か?」と思ったら、これ、「奴(ヤツ)」を「ヤシ」と誤変換して、更に漢字をアテたんだね。なんでそこまでしてジャーゴンを作らにゃならんのか、理解に苦しむんだが。
 松本氏はこれらのジャーゴンについて、「バーチャルなコミュニティ内でのコミュニケーションを維持するのに有効」と分析する。その点について、基本的に異論はない。
 しかし、匿名性が前提となる2ちゃんねらーのジャーゴンが、「異質な他者の存在を許容する潤滑油の働きを担う」とまで言い切って肯定しちゃうのはどうかと思う。例えば、松本氏によれば、「出ていけ」とストレートに言うと喧嘩になるが、「逝ってよし」と表現すると、相手に不快感を与えずにすむ(どころか、言われた方はカタルシスすら覚える)そうである。
 ……そうなんですか? 2ちゃんねらーの人。
 私ゃ、「逝ってよし」なんて言われたら、怒りゃしないけど嬉しくもありませんが。2ちゃんねらーになるためにはマゾにならないといけないってこと?
 私は2ちゃんねるはROMはしても書きこみをしたことはただの一ぺんもないので、その「潤滑油」という感覚がわからない。どの世界でもそうだが、ジャーゴンが不用意に専門外の人間に対して語られる場合の多くは、相手に対する優越感が付随してくる。「こういう難しいコトバをオマエは知らないだろう、オレたちの仲間になりたいんなら、こういうコトバ遣いを覚えないとムリだぞ」という「村八分」の感覚でもあるのだ。
 しかもそういう用語がさしたる意味もなく増殖に増殖を続けているということは(これは例えば医学の発展により医学用語が増えて行くのとはワケが違う)、円滑なコミュニケーションを図るためと言うより、「囲いこみ」の論理のほうがより優先されていることの証明だろう。2ちゃんねらーであり続けるためには、日々それらのジャーゴンを覚え続けなければならないのだ。
 そして、2ちゃんねる初心者で、ジャーゴンにまだまだ慣れていない人間に対しては、「厨房」「逝ってよし」の、相手にとっては何のことか判らぬ罵声を浴びせる。これは例えて言えば、英語の判らぬ日本人に対して、「Jap」と罵倒するのと同じ感覚だ。キョトンとしてる日本人を見て、更に嘲うのね。相手だって、よっぽど鈍感でない限り、どうやら自分がバカにされてるらしい、くらいのことには気がつく。さて、これで「円滑なコミュニケーションを図ろうとしてる」なんてことが言えるものかどうか。もしそう思って2ちゃんねらーたちがこれらのコトバを使ってるんだとしたら、それはとんでもない甘えである。

 2ちゃんねる用語の中には、通常の会話で使われることもあり、必ずしもジャーゴンとは言い切れないが、やたら頻度数の高いもの、というものもある。
 例えば、「〜ですが、何か?」という聞きかた。一見、疑問形ではあるが、これは相手に解答などを求めてはいない。「それがどうした、オレはオマエの言うことになんか興味ねえんだよ」という、会話に対する拒絶であって、だからこのコトバを真に受けて、誠実に対応するつもりで答えてみたところで、更に嘲われるか無視されるかどちらかである。「あほが見〜る〜、ブタのけ〜つ〜」ってことだね。
 こういう「拒絶のためのジャーゴン」が夥しく使われる空間に対して、「コミュニティ」などという呼称は、本来適切ではない。2ちゃんねるの「掲示板」とは、コミュニケーションのためではなく、あくまで「匿名性」に自己の存在を隠した「言いっぱなし」の「便所の落書き」として機能しているのである。
 コテハン(固定ハンドルネーム)を使ってたって、なりすまし、自作自演の多い2ちゃんじゃ、自分自身の証明になんかならない。昔、夏目房之介さんや唐沢俊一さんが2ちゃんに書きこんでたときには、それが自分であることの証明のために、わざわざ自分の日記やエッセイの中でそのことに触れなければならなかったのである。ましてやただの無名人が自分自身を主張しようとするなら、2ちゃんねるに書きこみをすることは全くの逆効果であろう。
 重ねて言うが、2ちゃんねるの「効用」は、新しい形のコミュニティを作っているということではない。
 その真逆で、誰もが同じコトバ遣いで、誰もが似たような言い回しで、誰とも知られずに心の底に溜まったどす黒い欲望だの憎悪だの偏見だのを撒き散らしてスッキリさせられるからこそ、2ちゃんねるはあそこまで巨大化していったのだ。
 そこに、表には現れにくいけれども、実は「大衆に“共通している”」時代の捉え方、時代の雰囲気、文化の底流にあるものを見出し、分析し、研究することが可能になる。たとえそれが醜い差別意識であろうとも、そこから目を逸らしてその国の文化を捉えることはできない。2ちゃんねるはまさしく我々の心の奥底を映し出す鏡なのである。
 だから私は、2ちゃんねるの存在を否定はしない。しないんだけれど、たまに実生活やごく普通のサイトで、「2ちゃんねらー」であることのアイデンティティを主張される人に出会ってしまうと、極めて困惑してしまうのである。本人だってことが特定されたら、名誉毀損で犯罪者ってことになる危険があるってことに気がつかんのかね。
 昔、あるチャットで、「私、2ちゃんねらーですけど、それが何か?」なんて言われたことあるけど、「あなたバカですね」なんて返事してほしいのか(^_^;)。

 ネットの恐ろしさってのは、たとえ個人のホームページであっても、それが巨大化していけば「2ちゃんねる的要素」が生まれてくる点である。つまり、「荒らし」が増えるのだね。典型的な例が山本弘さんの「SF秘密基地」だろうが、そこではやはり、管理の仕方をいかにするかっていう、管理者の「覚悟」が問われることになるのだ。
 ネットが新しい形のコミュニケーションを作りあげていく可能性については、大いに期待したい。実際、私の場合を考えてみても、ネットいうものがなければ、まず間違いなくAIQやオタクアミーゴスの先生方ともお近づきになれなかったし、もちろん、見知らぬ人たちから私の考えていることに対して、賛同、批判、罵倒を受けたり、知り合いの信頼、友情、裏切りに会ったりして、職場とトラブルを起こしたりすることもなかった(^_^;)。
 もちろん、それは全て私に「考える」きっかけを与えてくれた。
 その考えたことがまた日記にフィードバックされていく。おかげで日記がどんどん長くなる(ー∇ー;)。
 ネットに妙な夢を見るのは危険だと思う。けれどネットを通して、見えない相手の顔を想像して行くことが、越えられない人と人との心の壁に蟻の穴の一つくらい開けられやしないかと、ちょっとくらいは夢想してみたくなるのである。でもそのためにはまず「現実」を客観視する目を持たないとね。


 マンガ、増田龍治作・増田若子絵『POPEE THE PERFORMER ポピー ザ ぱフォーマー』(講談社/KCピース・1200円)。
 タイトルの「ぱフォーマー」の「ぱ」だけが平仮名なのは誤植にあらず。
 CSキッズステーション制作のCGアニメのコミック版だが、アニメの方のタイトルは『POPEE the ぱフォーマー』とアルファベットも字体もバラバラなのでややこしい。
 コミック版は当然CGじゃないんだけれども、そのギャグのレベルはアニメ以上にシュールで意味不明で、もう私にはおもしろいんだかつまんないんだかわかりません(^_^;)。
 アニメは最終回以外は全くセリフがないマイムものなんで、実は設定がよくわかってなかった。なにしろ「ポピー」という名前さえ、本編中で呼ばれたことはないのである。もちろんワザとわかんなくしてはいたんだろうけれど。
 解説によれば、「ポピーは17歳。クラウンと呼ばれるサーカスでの道化俳優見習い。ヴォルフ・サーカス団に所属していて、助手のケダモノとともにサーカス一座を盛りあげようと日々訓練に励んでいます」ということだけれど、なぜか舞台は誰もいない砂漠なんだよね。
 なんでかなあ、と思っていたら、「製作費がバカみたいに安く、制作期間もウソのように短いので、回りに何もない砂漠が一番作りやすかったから」だそうな(^_^;)。それでアレだけのクォリティのものが作れたんだから、やっぱりセンスは大事だね。
 とは言ってもこの制作者夫婦のセンス、決してマトモとは言えない。もともとの予定タイトルは『着ぐるいポピー』。そりゃテレビじゃ通らんわ(^_^;)。

 マンガの方にはアニメと違ってセリフがあるものもある。けれどセリフが「意味を伝える」ものであるとしたら、これはもうセリフではない。何も伝えようとはしていないからだ。その点では吉田戦車的ではあるね。
 例えば「砂かけ母」。
 レオタード姿の母親が、四つんばいになって後足で砂を蹴って、娘にかけている。娘は手を差し伸べて言う。「お母さんもうやめてよ」。
 母は悲しげに答える。「あんたにしてやれる事はこれ位しか無いの」。
 なんだかよくわからないが、何がスゴイってこの母娘、このマンガのレギュラーキャラでは全くないってことだ。ナニモノだよ、この二人(^_^;)。
 それにしても、アニメ以上に毎回ポピー死んでるなあ。

 ほとんどの話がマンガ版のオリジナルだけれど、最終回だけがアニメ・マンガともにオチだけちょっと変えて共通。
 ケダモノはいなくなってしまいました。
 だからこの話に続きはありません。
 ちょっと寂しいけど、この二人の新作、『ガラクタ通りのステイン』に期待しましょ。今度はもう少し予算が増えたみたいですから。
 

 しげがDVDを何かかけながら寝る、と言うので、久々に『名探偵ポワロ』を見る。今回は第5巻の『夢(The Dream)』。原作小説の方は未読である。
 大手パイ・メーカーの社長、ファーリーに呼ばれたポワロ(本当は「ポアロ」と表記したいところだけど、テレビタイトルがこうなってるから仕方がない)は、毎晩自殺する夢に悩まされている、と相談を受ける。やがて彼は死体で発見されるが、その状況は彼が夢で語った通りだった。
 長編に比べたら短編は苦手、というのがクリスティーについてよく言われる批評だが、これもトリックがどうにも古色蒼然としていて、現代の目で見ればいささか荒唐無稽な印象を受けてしまう。何よりこれは小説のトリックとしてはまだなんとか成り立ちはするが、映像にしちゃうともうバレバレなんである。犯人、よくこんなチャチなトリックでポワロの目をごまかせると思ったよなあ。
 と言っても、ポワロほどの頭脳がなくとも、ミステリーのセオリーをある程度知ってる視聴者なら、定番通りの発想を辿って、容易に犯人もトリックも見破ってしまうだろう。だいたい被害者がノイローゼで自殺したなんてことはありえないって前提で考えれば、誰が何のためにトリックをしかけたのか、すぐに気づくでしょ。
 トリックのレベルとしては、下の上クラスかな。

2002年01月17日(木) 部屋の中を歩けるようになったよん(それが普通だってば)/アニメ『七人のナナ』第2話/『クレヨンしんちゃん』31巻(臼井儀人)ほか
2001年01月17日(水) 雪が溶けて川になって流れていきます/『これから』(夏目房之介)ほか



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