無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年01月16日(木) 階段の怪談……f(^_^; スンマセン/『自殺』(柳美里)ほか

 ちょっと今日は怖い話をしましょう。
 しげはぜひ読んで怖がるように(^o^)。

 その日(って今日だけど、これは「語り」の定番なんで気にしないように)、私は残業で、七時過ぎまで職場に居残っておりました。
 山奥で人家もまばら、冬のこととて、あたりはしんしんと静まりかえっております。
 夜の見回りもこれで何度目でしょう、建物の中の暗がりにも随分馴れてきて、懐中電灯を片手に、一階から二階、と心の中で鼻歌なんぞを歌いながら(ホントに歌ったらバカみたいなのでしません)歩いておりました。
 コツ、コツ、と私の足音だけが廊下に響きます。
 建物は3階建てです。3階の廊下の天井灯がなぜか点きっぱなしになっていたので、スイッチを切って、屋上に登る階段を上がって行きました。
 屋上までは天井灯がありません。そのために懐中電灯が要るのです。寒いので外までは出ませんが、屋上へのドアに鍵がかかっているのを確かめて(キャッツアイじゃあるまいし、こんなところから泥棒が入って来るとは思いませんが、念のためです)、階下に降りてみました。

 あれ? 明るいな?

 消したはずの廊下の電気が点いています。
 上に行ってる間に、誰か同僚が通りかかったのかも知れない。そう思って、もう一度、電気を消しました。
 見回りはまだまだ終わりません。廊下を曲がって、奥に進みました。

 ふと、背中に気配を感じました。

 振り返ると、さっき消したばかりの廊下に、電気がまた点いています。
 誰も通っていません。それは確かです。足音もしませんでした。
 もう一度、電気を消しに戻りました。
 スイッチが甘くなったりしているか、と思って目を近づけて見てみましたが、普通のスイッチです。勝手に動いたりするようなものではありません。
 今度こそ確実に押して、あたりは真っ暗闇になりました。私は廊下からそそくさと逃げるように警備室に懐中電灯を戻しに行きました。
 もしかしたら、また電気が点くのではないか、そういう疑問も心に浮かびましたが、もうそれ以上、確かめに戻るつもりはありませんでした。

 職場をあとにして、建物を振り返りました。
 廊下にはやはり……。


 木曜洋画劇場で『男はつらいよ 寅次郎紙風船』、これはまだ見たことがなかった。
 マドンナが音無美紀子で、寅さんについて回るフーテン娘が岸本加代子。まあ、こりゃどうでもいい。
 小沢昭一がワンシーンだけ出演していて、渥美清と絡むのだけれど、やっぱり芸達者同士の掛け合いってのは味があるし息は合ってるし、いいんだよなあ。これで監督が山田洋次じゃなかったらもっと面白くなってたろうに(^o^)。いや、せっかくこの二人を掛け合いさせていながら、ギャグがないのよ。
 寅さんシリーズ続けててもよかったけどさあ、やっぱり役者の使い方ってものはちゃんと考えてほしかったよね。


 『ダ・ヴィンチ』の2月号で、手塚治虫『ブラック・ジャック』の各話人気投票が行われている。
 1位はピノコ誕生編である『畸形嚢腫』。
 次いで、ブラック・ジャック初恋編の『めぐり会い』『おばあちゃん』『ときには真珠のように』『友よいずこ』『ちぢむ!!』『人生という名のSL』『ふたりの黒い医者』『えらばれたマスク』『ピノコ生きてる』、と続く。
 一目瞭然、ベストテンのほとんどが「ブラック・ジャック自身の事件」である。ピノコやドクター・キリコなど、レギュラーキャラの話を含めば、純粋に手術ものと言えるのは、『おばあちゃん』と『ちぢむ!!』だけだ。
 本来、ブラック・ジャックは物語の狂言廻しであって主役ではない。主役はあくまで各話のゲストキャラであるのだ。となれば、『ブラック・ジャック』の本質は、この人気投票全体からはあまりうかがえない。
 やはり、「内幕もの」的な「自身の事件」を除いた中の最高位である『おばあちゃん』に、このシリーズの本質を見るのが妥当のように思われる。
 単純に考えれば。

 嫁に嫌われてもお小遣いをせびり取る老婆。彼女は昔、難病にかかった息子の命をブラック・ジャックに救ってもらっていた。おばあちゃんは、まさしく一生をかけて、その高額な治療費をブラック・ジャックに支払い続けていたのである。

 何度となく『ブラック・ジャック』中で描かれる「医療とカネ」の問題である。
 しかし、このシリーズが一筋縄ではいかないのは、「人の命を助ける医者が高額の代金をもらって何が悪い」というテーゼが提示される反面、別の話では「医者が人の命をどうこうできるなどとはおこがましい」というアンチテーゼも描かれていることだ。
 そんなことも含めて、「医者ってなんだ」「命とはなんだ」という疑問を読者に問い続けたのが『ブラック・ジャック』という物語だったのだろう。答えなんて、手塚治虫自身にだってわからなかったと思う。


 柳美里『自殺』(文春文庫・480円)。
 そう言えば、柳さんが自分の名前を「ユウ」と読ませてるのは間違いだと『まれに見るバカ女』の中で呉智英が指摘してたな。
 本当の発音は「ユ」と短く、「ユウ」だと「乳牛」という意味になるのだという。
 朝鮮人と言っても、柳さんは在日二世の人である(正確には在日韓国人。「朝鮮」という呼び方を韓国の人は嫌うらしいが、北朝鮮と韓国をひっくるめた「朝鮮半島」って言い方が日本じゃ一般的なんだけどな。わざわざ「韓半島」と読んだら、今度は北朝鮮から文句が来そうだぞ)。どれだけ韓国語ができるのか怪しいし、そういう間違いもあるんじゃないかなあ。それをあげつらうってのは呉さんもどうかしてるな。
 呉さんは「朝鮮語ができなくて当たり前である日本人に、朝鮮人名の朝鮮語読みを強制するほうが理不尽」とも主張しているが、別に日本人じゃなくて朝鮮人なんだから、理不尽でもなんでもないでしょう。呉さんは中国や朝鮮に行ったときに自分の名前が向こうの発音で読まれても気にならないのかもしれないけれど、普通の日本人は「それ、オレの名前じゃないよ」と感じると思う。

 そんなことを思ったのは、この本の書きだしが、「はじめまして、ユウです。柳と書きますが、ユウと読みます」で始まってたから。
 これは、1993年に神奈川県立川崎北高校で行われた柳さんの講演及び生徒との対談記録、それに1999年時点での論考を追加したものなんである。
 1993年は、ちょうど柳さんが処女小説『石に泳ぐ魚』を執筆している最中であり、さて、このとき柳さんがどんな心理状態で小説を書いているのか、ということの興味もあって読んでみた。
 
 テーマがなにしろ「自殺」である。
 柳さんの担当編集者はこの講演の企画を説明する時に、「自殺といったら、経験者でもある柳さんをおいてほかにいないと思いまして」と言ったというが、冷静に考えれば、こんなヒドイ言い方はない。まあ、柳さんが「有名人」であり「表現者」であるから、多少のシツレイをしたところで構うまい、という判断はあったろうが、普通、自殺未遂者に「自殺しようとしたときどんな気持ちだった?」なんて聞かないもんだ。
 講演を依頼した学校の方も、恐らくは軽い気持ちだったんじゃないか。柳さんのことを「自殺を乗り越えて強く生きている」というふうに考えて、生徒に「命の大切さについて考えてもらいたい」とかな。
 しかし、柳さん、確かに「強く」生きてはいるのだろうが、その「強さ」っての、普通に期待されるような前向きなもんじゃないんである。どっちかっつーと、「後ろ向きな強さ」っつーか、「暗い強さ」(^o^)。

 「小学校六年で生理が始まったとき、はじめて自殺を考えた」
 「生理が始まったことは私にとって、死期が近づいたということだった」
 生理のない男である私が、こういう感覚について、あまりうかつなことは言えない。不安はあっても、母になれる身になった喜びはないんだろうか、とか考えるのは、やはり男の勝手なリクツ、ということになるのかもしれない。ましてや柳さんは子供のころから母親に「あなたなんか産まなければよかった」と、母であることを拒絶した言葉を聞かされ続けていたのである。
 浅薄な分析ではあるが、裁判時の発言にも顕著に表れている柳さんの心の歪みは、やはり子供のころの親子関係に起因しているように思う。
 親はよく、「要らない子だなんて冗談だ」とか「そう言って親ばなれさせるのも躾のうち」だとか言い訳をするが、残念ながら、ある程度ではあっても本気で「コイツ要らないな」と思わないと、親の口からこんな言葉は出ない。子供はそれくらい感づく。
 親に見捨てられた子供は確実に歪む。柳さんが歪んじゃったのも、仕方がないことかも……なんて言い方をすると、柳さんの現在の狂いぶりを弁護してるみたいだけれど、必ずしもそうじゃない。
 自殺未遂を繰り返してる人に対して言いにくいことじゃあるけどさあ、親ってものはたいてい子供を見捨てるものなのよ。だから、子供は100パーセントの確立で歪むものなんである。「オトナになりたくない」「親になりたくない」って感覚を持たない子供はいないし、自分だけが自殺をしよう、ましてや柳さんのように「世界人類が死んでしまえばいいのに」とまで思うのは、ただの自意識過剰なんである。

 中学二年のとき、柳さんは好きな同級生の「女の子」に告白をして、振られ、カミソリで手首を切って自殺を図る。
 その女の子は、柳さんのことを「あなたのその長い髪も、しゃべり方も、存在自体大嫌い」と言って拒絶したということだが、まあこの言い方も相当にヒドイけれど、中学生くらいの年頃なら、自分のことを日頃から熱く見つめる「同性」がそばにいたら、拒絶することもありえるだろう。
 「ごめんね、あなたの気持ちは嬉しいけれど、私、同性の人には興味がないの」なんて優しい言い方ができる余裕はなかろう。しかも、柳さん、そんな言い方で引き下がってくれそうな雰囲気ないし(^_^;)。

 実はもう、本書の内容をつぶさに見て行きたくないんだけど、それはなんでかって言うと、この人の喋ってることも内容も、とことん「鬱陶しい」からなのね。「怖い」と言ってもいい。
 基本的に、「生きる権利があるように、人間には死ぬ権利だってある」という主張には賛同できはする。
 けれど、柳さんの、ともすれば自殺を肯定するために粉飾を施し、自分勝手な理屈をつけ、美化しようとする語り口にはどうにもついていけない。
 私が「人が死ぬのもその人の権利」と言うのは、結局のところその人がなぜ死を選ぶのか、理由はその人自身にしか分らないと思うからだ。
 柳さんのように、「寺山修司は自我を守るために死んだ」「岸上大作はぶざまに生きることを拒否して死んだ」「円谷幸吉は誠実であろうとして死んだ」「岡真史くんは鋭い感性ゆえに死んだ」「太宰治は日常のしがらみに堪え切れずに死んだ」とやられると、「私はこんなに自殺する人の気持ちがわかるのよ」という思いあがりばかりが鼻について、「そんなに死ぬ人間の気持ちがわかるならテメエもさっさと死ねや」と暴言を吐きたくなってしまう。

 ハッキリ言うが、たとえ柳さんに何度となく自殺未遂の経験があったとしても、それでほかの自殺者の心理などわかったりはしない。絶対にわからない。
 そもそも人間に、ほかの人間の気持ちが「手に取るように」理解できるなんて思いこむ方が狂っているのである。人は、人とコミュニケーションを図るとき、結局どんなことをしてもこの人と理解しあえることはないのだ、という絶望から始めなければ、実は一歩も先に進むことはできない。理解できた、と思った時点で人間関係は終わるのである。柳さんはまさしく他人との関係を「終わらせて」いるのだ。そこにはもう柳さん一人しかいない。彼女が語っているのは自分のことだけなのである。
 こういう講演の依頼を引き受けたこと自体、柳さんの肥大化した自意識の表れだ、と見なすこともできよう。柳さんは他人のことを語っているようでいて、自分のことしか見ていない。もちろん、誰にしもそういう面はあるものだが、普通はそういう自分に気がつけば自ら一歩引くものである。
 それをこう露骨に出されると、引くのはこちらの方になる。アナタ、「ほーら、こんなに手首が切れちゃった」って見せびらかす女のソバにいたいと思いますか? 相手がどう言い返したらいいのか判らない状況を作り出して喜んでる人間がいれば、普通は誰でも逃げますって。

 なんだか『石に泳ぐ魚』、読まなくてもいいような気がしてきたなあ。
 もう自分のことを批判的に見る目も持たずただただ甘えた自意識を垂れ流すだけの文章って、読んでてツライからさあ。

2002年01月16日(水) どんぶりめしがいっぱい/『パワーパフガールズ<DCコミックス版>』1巻(クレイグ・マクラッケン)ほか
2001年01月16日(火) 雪の白樺並木、夕日が映える/『風の歌うたい』(吉田秋生)



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