無責任賛歌
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2002年06月27日(木) |
緩やかな統制に異議を/『七人のナナ』&『アベノ橋魔法☆商店街』最終回/『王妃の離婚』(佐藤賢一) |
仕事帰りの晩御飯、どうするかと、車の中でしげに聞いたら、「今日は寿司の気分」だとか。 「でも、カネないし。諦める」 「諦めることないよ、俺が奢ってもいいし」 「なん、あんた、カネあると?」 「あるわけじゃないけど、寿司一回奢るくらいはあるよ」 「……明日は?」 「毎日はムリだよ! ってゆーか、毎日寿司食うかい、普通」 「……じゃあ、要らない」 「なんで? 寿司食いたいんじゃなかったんかい」 「食いたいけど食わん。だって、今日食って明日食えんのって悔しいやん」 悔しいってよう、そりゃ単にぜーたく言ってるだけじゃないか。貧乏人のクセにつましい生活はしたがらないやつなんだよなあ。 そのくせ、次の瞬間、「ねえ、どこか遠くに行きたいね」とか言い出すのだ、このスットコドッコイは。 「じゃあ、休みに三井グリーンランドにでも行くか? 前から行きたがってたろ?」 「いいけど、オレたちみたいなのが行っていいと思う?」 この「オレたちみたいなの」とはどういう意味だ。 実際の自分は傲慢なくせして、言葉だけは卑屈なふりをするこういったしげの態度に接すると、正直な話、イラダチを抑えきれないのである。しかも「オレたち」だなんて私もしげといっしょくたにされてるし。わしゃ三井グリーンランドに行っちゃいかんのか。行ったら追い出されるのか。っつーか、三井グリーンランドのどこにどう遠慮しなきゃならないのか。皇居やバッキンガム宮殿だって庶民に開放されてるんだ。どうして遊園地に遠慮しなきゃならん。 もう口を利きたくなくなって、「だったら行くな!」と言って、車の背もたれを倒して寝る。 素直に喜びゃいいのに、どうしてこうヒトコト多いのかな、しげは。
26日の唐沢俊一さんの裏モノ日記で、ワールドカップのあの加熱騒ぎを冷ややかに批評されているのを読んで、なんだかホッとする。 まずは香山リカ氏のエッセイに触れて、「若者の抑圧をその底に見、それを意図的に煽動する者が出てきたとしたら」という香山氏の言葉を引用されているのだが、これが杞憂でも何でもないことは既にオウム真理教の事件などでも証明されている。実際、乗せれば動くバカはいくらでもいるってことをマスコミが宣伝してくれたようなものだ。戦争を歓迎する人間は多くはないが、戦争になってしまったら、唯々諾々と従うのがほとんどの日本人の国民性だ。だから、国捨てて逃げても非国民じゃないって言ってるのに。そんな考え方してたら、世界の難民はみんな非国民ってことにならんか? 唐沢さんが「日頃、ドメスティック・エゴに対して冷笑的、あるいは否定的な見方をしている人が、サッカーというフィルターがかかっただけでコロリと愛国者になってしまう。こういうのは腰が座っていないのである」と書かれているが、腰が座ってないだけならまだいい。サッカー見ざれば人にあらず、みたいな態度を取られるのが迷惑なのだ。 これは「『クレヨンしんちゃん』はいいよ、見ようよ!」という趣味に関する勧誘とは全く質が違うものだ。私は普通の人が『クレヨンしんちゃん』を見ないからと言って怒りはしないが(日記中で私が腹を立てていたのは、あくまで「劇団員」や自称「オタク」のくせに『しんちゃん』を差別している点であることに注意していただきたい)、彼らは彼らに同調しないこと=敵と見なすのである。 そりゃいくら何でも考え過ぎじゃないか、と言われる方もあろう。しかし、単にサッカーが好きなだけなら、ワールドカップ以外のサッカーの試合にだって、興味を示すはずではないのか。なのに、今のサッカーバカの大半は、「日本を応援する」ことにしか興味・関心がない。深層にある共同体意識や愛国心を、「趣味」や「嗜好」のオブラートに包んで提示していることは否定のしようがないのである。 私は何もナショナリズムを全面的に否定しようとは思わない。 ただ、国に対する思いを、仮想敵国を作る、敵を倒すという形でしか表せないのは、結局は精神の脆弱さを露呈しているだけであり、いずれは何者かに洗脳煽動される危険を孕んでいることを指摘したいだけなのである。 私ゃ自分が強い人間だなんて思わないけどさあ、あんなお仕着せの中身がスカスカなイベント(念のため言っとくけど、これはサッカーというスポーツ自体がつまらないと言いたいわけじゃないからね。趣味レベルのものがムリヤリ国家的イベントに仕立て上げられてるってことを言ってんの)に乗せられるほど欲求不満に陥っちゃいないんだけど。
これだけの熱狂が起きた、ということは、とりもなおさず他人に乗せられるばかりで、自分のアタマで考えようって人間が減ってきてるってことだ。「自分のアタマで考えてない」ってことにカチンと来るなら、ワールドカップ以前と以後とで、サッカーのルールにどれだけ詳しくなったか、説明してみろ(何度も言う通り、これは純正のサッカーファンに対する批判ではありません。俄かファン、エセファンに対するものです)。 熱狂するなら他にもいくらでもあるだろうに、なんでもっと世間にオタクが増えないのか(そこに話を持ってくるかよ)。
唐沢さんは更に、「現代アニメ論」を展開されているが、これについても大いに賛同したいのだが、書きだすと長々論文になってしまうので省略。 ただ、何度もこの日記でも書いてるけど、若い人が昔のアニメや特撮を知らないのは仕方がないことだけど、「知らなくたって恥じゃない」と開き直るのはバカなだけだからやめた方がいいぞ。そりゃ、トシヨリが若い人を慰めるためのコトバでぁって、バカな自分を正当化するために使うコトバじゃないよ。 別に威張るわけじゃないけど、オレたちゃトルストイもドストエフスキーも漱石も読んだ上で、『クレヨンしんちゃん』は面白いって主張してんだよ。でなきゃ、言葉に説得力ってものが出て来ない。自分たちのコトバにどれだけ人を納得させられるだけの論理があるかどうか、ちったあ考えろよな。 ……唐沢さんの「情報は現在のそれが過剰になればなるほど、歴史的つながりが絶えてしまうものなのである」ってコトバ、諦観してるみたいで悲しいなあ。
アニメ『七人のナナ』第25話(最終話)「合格発表!! 心の丘に花の咲く?」 あ〜、しばらく見てなかったら、「影ナナ」なんてのが出て来てるよ。 ダークサイドっつーか、ウィリアム・ウィルソンっつーか、この手のパターンはいやになるほど見てきてるんで、飽き飽きしてるんだけど、結末が更に「あなたもやっぱり私だから」って言って合体しちゃうってのもあまりにも定番で安易過ぎないか? 同じ安易でもね、本来、一年経っても七人のナナが元に戻れなかったら死んじゃうって話だったのが、実はそれ、お爺ちゃんの勘違いでしたって肩透かしは別に腹は立たないのよ。それは話を引っ張るためのマクガフィンみたいなものだから。 けど、そうやって七人のナナがいるなら、影ナナだって復活してなきゃヘンじゃん。結局、オチ付けるために八人目のナナを出したのはいいけれど、物語としてうまく着地できなかったってことじゃないのかね。 せっかくハチャハチャな展開で久しぶりに楽しめるギャグアニメになるかと思ったら、また今川泰弘の説教臭さが出てつまんなくなっちゃった。だから「自分の気持ちに正直になることが大切」なんて薄っぺらなスローガンでアニメ作らないで欲しいんだけどなあ。
アニメ『アベノ橋魔法☆商店街』13話(最終回)「甦れ!まぼろしの陰陽師☆」。 あー、サッシの正体って安倍泰親だったのね。 って実はこれ、ネタバレなんだけど、どーせ若い人は安倍泰親なんて誰なんだか知らないだろうから、名前出しても大丈夫だろう。第一、本編中でも泰親についての解説、全くないし。 これまでの色々なアベノ橋商店街が全てサッシの心の中の仮想現実だったってのは、ブラウンだしディックだし押井なんだけれども、それはもうバレバレなのを承知の上でいろんなスラップスティックな世界を見せてくれたんだから、これはこれでいい結末なのかもな。 結局最後はまた別の世界に逃げこんだだけじゃないのかって疑問は残るけど。 ……で、最終回なのに予告編つけるなよ(~_~;)。
佐藤賢一『王妃の離婚』(集英社文庫・720円)。 第121回直木賞受賞作なんだけど、確か、受賞はしたものの、評者の誰かが、「これが佐藤賢一の代表作とは言えない」とかなんとか言ってたように思う。それでも受賞できたのは、井上ひさしの強いプッシュがあったおかげらしいんだけれど、あの人、小説を読むのも書くのもヘタだしなあ。 あまり期待しすぎないように、と思って読んだんだけど、なんというか、惜しいね、この作品。 フランス国王ルイ12世は、一介の諸侯に過ぎなかったころ、11世から娘を押しつけられて妻としていた。国王に即位した今、彼は王妃ジャンヌを疎んじて離婚の申し立てをする。原則として離婚が認められないカソリックにおいて、唯一の法の抜け穴は、結婚自体の無効を言い立てることだった。 しかし、「結婚の事実がない」と主張された王妃ジャンヌは、聴衆の前で厳然と異議を唱え、夫に徹底抗戦の構えを示す。だが新国王に阿る裁判官たちは、ひたすら王妃に不利な証拠ばかりをでっち上げた。 かつて11世に追放された恨みを晴らすかのように、その娘が裁かれる様を傍聴に来ていた弁護士フランソワは、裁判のあまりの不正ぶりに憤り、また、王妃の毅然とした態度に惹かれ、弁護を引き受けることになる。 ……ネタはすごく面白いんだよねえ。多分ある程度史実には基づいてるんだろうけれど、キャラクターが魅力的だし、敵も味方も権謀術数の限りをつくすあたりはまさしく波瀾万丈、フィクションの面白さに満ちている。、 けど、文章がもう、どうにもいただけない。 一見、この人、文章がうまいように錯覚するんだけれど、それは朗読を意識したと思しい、韻文的な文章によるものである。だからリズムに乗ってスラスラ読めはするんだよね。でもその書かれている内容がひたすらクドくて(-_-;)。 例えば、検察側が王妃に要求した「処女検査」、この説明が延々と続くの。しかも同じ内容の文章が何度も出てくるし。作者、何をそこまでバージンに拘るかって突っ込みたくなるくらいで。 ハッキリ言って、うまい作家なら、この半分の量でもっとキビキビした小説が書けるよ。抑制が効いていない文章はひたすら「ダラしない」だけだ。裁判の結果はだいたい予測がつくので、そこをどう退屈しないように面白く見せるかってのを工夫するのも作家の手腕の見せ所なのだけれど、あっさり終わらせちゃったからねえ。アレじゃ、ヤルことヤッたら、もうそれで裁判はどうでもいいって感じじゃん。これこそ肩透かし。 飛ばし読みすれば、まあまあ面白がれるんじゃないかとは思うけれど、じっくり読むのはオススメしません、ハイ。
2001年06月27日(水) 「マチャアキ」離婚ってあまり言われてない。時代か(+_+)/DVD『八岐之大蛇の逆襲』
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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