無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年03月12日(火) 「思春期」という名の汚泥/『サブカルチャー反戦論』(大塚英志)ほか……“NEW”!

 もうなんだかまいにちのおしごとがたいへんです。
 いそがしくておひるねもできません。
 だからかえってすぐねむくなりますがにっきをかかないといけないのでねむくてもがまんします。
 こんなぼくはかわいいとだれもいってくれませんがいわれたらいわれたできもちがわるいのでそのままでいいんだよとじょんれのんもいってました。

 ……熱があるのか、私。

 スーパーに寄って、食料など買い込む。
 惣菜売り場で、からあげを買おうとしたときに、偶然、同僚の女性に出会って挨拶。我々も夫婦で買い物してたのだが、あちらも旦那さん連れであった。
 「あら、いつもこちらでお買い物なんですか?」
 「ええ、仕事帰りに買い物して、それから家事を」
 「私たち、この近くにすんでるんですよ」
 「ああ、それは便利ですねえ」
 と、たわいのない会話。
 実はこの女性、しげと同い年だ。
 けれどねえ、はっきり言って、しげより美人だししげより清楚だししげよりしっかり者だし、まあ、しげより劣ってる女性を世間で探すほうが実際、難しいと言うか、砂漠の中に落ちたゴマ粒を見つけるくらいミッション・インポッシブルなことなのだが、それにしてもちょっと立ち話してるだけで、しげが嫉妬してるのがわかっちゃうのがどうもねえ。
 どう嫉妬してるかと言うと、表だってケンカ売るような度胸はしげにはないから、私の後ろに隠れてモジモジしてるのである。
 実はこの態度が、しげを「かわいい」と誤解させてしまう原因になってるのだな。しげは自分が「かなわない」と思った相手からは逃げるやつなんだけどね。
 ……んなこと言ってたら私だって相手の旦那さんには全然かなわないんだが。

 で、今日も夕食は「焼肉もやし」。安上がりでヨイです。


 『盤嶽の一生』第2話「絵図面の謎」。
 やっぱり今回も騙される盤嶽の巻(^o^)。
 でもコンセプトが分っちゃうと、第1話ほどには楽しめないなあ。
 「大盗賊日本左衛門の埋蔵金」ってよう、それだけでもう、「インチキ」ってバレバレじゃん。
 となると、あのゲストもこのゲストもみ〜んな「詐欺師」だってことが見えちゃうんだよなあ。
 しかも1話とうって代わって、安達祐実だの高橋和也だの浅野ゆう子だの、大根ばかり揃えやがるし。
 キャストで映画の9割は決まるって言ってたんじゃないのか、市川崑。


 某サイトにて、中学三年生の女の子と、偶然にも二人だけでチャットしていた。何分、受験生であるから、激励めいたことを喋っているうちに、その女の子の友達の話になる。
 「思春期」というコトバの胡散臭さとは、まさしく10代を生命感溢れる「春」に譬える偽善性にある……とは誰が言ったんだったか、私が言ったんだったか。
 実際、10代、20代前半の頃くらいまでを思い出してみたらいい。そんなオブラートにくるんだような甘いもんじゃなかったはずだ。自分のほとばしる性を制御できず、バカでアホウでみっともない行動を周囲に晒しまくっていたかつての自分。よく、「若い頃に戻りたい」というヤツいるけど、それはいったい、どのあたりまでだ? 私はせいせい20代後半だ。それ以前の狂気と愚昧の10代になんぞ、帰りたくもない。
 だから、今の私が「10代の女の子ってどう思う?」なんて聞かれても、答えに窮するばかりなのだ。
 その女の子自身は、トシのわりには随分と冷静なほうである。同じ10代でありながら、同い年の友人たちの「自己欺瞞」にはしっかり気がついている。だから逆に、友達にある「悩み」を打ち明けられて、困ってしまったらしい。
 「私はこんなに苦しいの」という友達の言葉が、その女の子には「自分に酔っている」ようにしか聞こえない。
 それはその通りだろう。
 10代の少女の涙の9割は(あるいは10代でなくても)、「自己陶酔」だ。
 ただ、私はその女の子の分析に舌を巻きつつも、「そのトシで既に人間の全ての事象を『自己陶酔』で括る」ことの危険性も感じていた。
 こういう冷静な子って、女の子グループの中じゃ「浮く」んだよね、往々にして。
 だから、「そういう『自分に酔ってる』って切り取り方をする必要はないんじゃないかな。確かにそういう面もあるだろうけれど、『悩み』をどう解決するかってことを、完全に自己完結させることだって、できることじゃないんじゃないかな」なんてことを話す。
 中学三年生にこんな言葉遣いは少々難しかったかもしれないが、それを理解できるだけの能力がこの子にはあるんじゃないかな、と期待したのだ。
 反応は「はあ、そんなもんですかね」だったけど。


 大塚英志『サブカルチャー反戦論』(角川書店・1155円)。
 まず、この単行本のモトの掲載誌がどこか、ということから押さえておく必要があるだろう。
 『NEWTYPE』である。『ザ・スニーカー』である。
 そうですよ、あのオタク系アニメ情報誌の、小説誌の、です。
 『多重人格探偵サイコ』の連載のフリをして、さりげなく読者に提示されちゃった原稿。それがこの『反戦論』。
 この事実だけでもう、実はこの本読む必要なくなっちゃったんじゃないかって気がするよね、実のところ。こういう「反則」的行動自体は確かに面白くはあるんだけれど、同時にそんな行動を取るやつが「信頼に値しない」というのもたいてい事実だし。
 ……いや、取ってもいいけど、それを「前がき」で弁明しちゃイカンよねえ。やったらやりっぱなしで、あとは黙ってなきゃ。「反則」の言い訳くらいみっともないことはないよ。

 あの同時多発テロに対して、文学者たちが表立った行動を取らなかったことに対して、作者は、「かつてない苛立ち」を覚えたと言う。
 「あらゆる戦争行為に協力しない、と正論をとなえる勢力はジャーナリズムで存在感をなくし、10年前の湾岸戦争では反対声明を出した文学者からも目立った動きがなかった。その『鈍さ』。漫画をなりわいとするサブカルチャーの人間として『逆ギレ』した。」
 ……気持ちはわからなくはない。けど、あまりにストレート。というか、「文学者へのヒガミ」を動機に書いてるんじゃん、このヒト。正直すぎる述懐ってのは、かえって「胡散臭く見える」ってこと、この作者、考えて書いてるのかね?
 「戦争に協力しない」という意見を述べるのは構わないけれど、それって国際的には一つの「意見」ではあるけれど、別に絶対的な「正論」じゃないでしょ? 唯一にして普遍的な「正論」なんてものはどこにも存在しないんで、それを口にした時点で、このヒト、論理が語れる人ではないということが見えてしまう。
 第一、「文学コンプレックス」をバネにして「アジビラ」書くってのが読者に見えちゃうってのは、アジとしては最低レベルではないのか。

 「反戦」を唱える者はたいていヒステリックだ。
 そのヒステリックさが反発を招いたために、最近の「復古」ブームというか、「戦争もまた一つの選択肢であった」という肯定論を認める風潮を作ってきたということを、反戦論者たちは情けないくらいに自覚してない。
 「日本国憲法の英語原文の和訳」とか面白いこともやってるけど、概して説得力に欠けるのは、やっぱり「でも、日本が攻められたらどうするの?」という疑問に答えてない(答える気がない)からでもある。
 私も「反戦論者」だからこそ、自分の立場に欠陥があること、わかるんである。そこから逃げてる文章はどんなにページ費やしたって、ただの駄文にしかならないんだよねえ。
 結果、ただの「自己満足論」にしかなってない。どこかにもちっと説得力のある「反戦論」はないものかねえ。

2001年03月12日(月) 伏字な話/ドラマ『D』episode1 ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)