無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年07月20日(金) 一人で見る映画/映画『千と千尋の神隠し』

 連休に入ると、つい時間感覚がなくなる。
 夕べも「明日は早起きしなくていいんだ」と思ってつい夜更かし。
 で、楽しみの連休中も結局は寝不足のまま過ごすことになっちゃうのだ。
 朝方、しげはどうやら私を起こそうとしたらしい。
 らしいと言うのはもう記憶が曖昧だからなのだね。
 「映画行こうよう。朝だよう」
 「……朝って何時」
 「7時」
 「……映画館も空いてないやん、昼からでいいよう」
 そう言って、また眠りに入り、目覚めたらもう昼過ぎ。
 今度はしげの方が眠っている。
 「……どうした? 映画行くんじゃなかったのか?」
 「朝しか行きたくないよう。昼からはイヤだよう」
 どういう理屈だ。
 しげは、これまで、朝早くから映画に行ったことなんて殆どない。
 私にしてみれば、朝方に出かけて、昼過ぎに食事と買い物をして帰宅、というのが休日の過ごし方としてはベストだと思っているのだが、たいてい朝はしげの方が寝ていて起こしても起きないのである。
 今日だって、てっきり朝はしげがグズると思って、昼から出かけるつもりでいたのだ。でなきゃ夕べDVD見て半徹夜、なんてことはしない。
 ともかくいやがる奴を無理に引っ張ってたってしかたがない。しげのきまぐれとスケジュールに合わせていては、とても映画に行く時間など作れない。
 何しろいつ「今度の○曜、からだ空いてる?」と聞いても「わからない」とか「なんでアンタに教えないかんの?」としか答えないのだ。自分のスケジュールは教えたがらないくせに、こちらの都合ばかり聞きたがると言うのは見当違いじゃないか、と何度言っても改めない。
 性格が歪んでいるのである。
 品性が下劣なのである。
 根性曲がりと映画に行っても楽しくないぞ。わかってんのか。
 というわけで、映画には一人で出かけようと決心するが、それでもすぐには出かけない。
 しげの気持ちが変わって、「やっぱり行く」とか言い出しかねないので、ちょっとは待ってやるのである。
 ……なんでこんなアホウに気を使ってやらにゃならんかな。


 テレビ「ザ・ワイド」でショー・コスギのサクセスストーリーみたいなことをやっている。
 こういうのって、サクセスしてる時には既にもうオチメってことも多かったりするので、失笑ものだったりすることも多いのだが、「アメリカで今も活躍」とか言ってる割に流される映像はかつての「ニンジャ」シリーズばっかりだ。
 「日本人として初めてミフネもなしえなかった100万ドルスターになった」って言ったって、三船敏郎がハリウッド映画に出ていた頃とは、物価が違うってえのに、どうしてそう単純比較するかね。
 今、ショー・コスギがなんの映画に出てると言うのだ?
 しかも、「自分がかつて、単身、日本を出てハリウッドに来たように、息子のケインにもアメリカを出て日本で修業させている」って、アメリカじゃ仕事がなかったってことじゃないのか。
 日本でだって、ケイン・コスギ、ここしばらくは、『筋肉番付』で「サスケ」に挑戦する姿しか、私ゃ見たことないぞ。

 アクション俳優としてのショー・コスギを貶めるつもりはないが、ハリウッドで成功して金持ちになるのがステイタス、なんて勘違いを標榜されちゃ困るのである。
 一生貧乏でも、主役を張ることはなくったって、映画界になくてはならないって俳優はいくらだっているんだから。


 結局しげは自分の睡眠を優先しているので、一人で映画に行くことにする。
 途中、キャナルシティの福家書店で本を買いこむ。
 多分、長いこと並ばねばならないと思ったので、待ち時間を過ごすために本を買ったのだ。
 ……はい、そうです。初日に行っちゃいました。
 『千と千尋の神隠し』。

 ちょうど昼のニュースで、宮崎駿監督の舞台挨拶の様子が紹介されていた。
 「ラストの絵は私自身が描きまして、アレは水の中を靴が流れてる絵です。スタッフからは『全然分らない』って言われてますけど、あれは水なんです」とのコメント。
 なんのことやらわからなかったが、映画を見てみて納得。確かによく見ないとなんの絵か解らない。
 宮崎監督、絵がヘタになっちゃったなあ。

 話が前後したので、もとに戻す。
 福岡では天神東宝で、2館を使っての拡大上映。あと大野城のワーナーマイカルでも公開だが、意外なことにそれで終わり。新聞にはキャナルでも公開って書いてあるのに、ネットにゃ載ってなかった。時期をずらして公開するのか?
 どっちにしろ、あとでしげと見に行くことがあるとすれば、天神東宝には行かないだろうから、一人でならそちらで見て、映画館の違いを確認するのもいいだろう。

 ……予想通り、1時間前で既に二、三十人の列ができている。
 しかも、狭いフロアにどんどんことが入って来て、あっと言う間に鮨詰め状態になっちゃったものだから、とても本など読める状態ではない。
 30分前には200人は集まっていただろうか、こうなるとクーラーなんか効きゃしない。ただただ、汗が流れ続けるのをガマンするだけである。
 館員が整理しようとして何度も叫んでいるが、上映時間が迫るにつれ、人数は増えるばかりだから、そう簡単にいくものではない。
 「もっと詰めて下さい!」
 「押さないで下さい! 子供もいます!」
 そういう矛盾したことを言われてもなあ。
 開場した途端、「走らないで下さい!」という案内を無視して、みんな走る走る。こういう自分勝手な客どもが宮崎映画を見に来てるんだよな。宮崎監督のメッセージは誰にも届いていない証拠であろう。
 あ、私は走ってませんよ。念のため。

 予告編で新作『ゴジラ』の15秒スポット。チラリとだけ紹介のの新作シーン、殆ど『ウルトラファイト』。やめてええええ(TロT) 。
 なかむらたかし監督の新作アニメの紹介、これが内容が全く『A.I.』。
 鉄腕アトムの映画化といい、なぜこう同じ内容の映画が流行るかな。
 想像力の枯渇と言われても仕方ないのではないか。

 で、本編の感想はね、いろいろとあるけどね。
 『もののけ姫』見たときゃ、「『エヴァ』のマネやん」と思ったものだったけど、今度は「『オトナ帝国』のマネやん」。
 いや、偶然なんだろうけど、「お父さんお母さんを奪還する」ってストーリーの骨格は同じなのね。
 じゃあどっちが面白いかと言うと、「感動」という点でははるかに『オトナ帝国』の方が上なんだけれど、『千と千尋』も捨て難い面がある。

 『オトナ帝国』の原監督に比べて、宮崎監督の方が「家族」に対する見方がシビアな分だけ(家族の絆なんて信じてない)、物語としての求心力は失われてしまっている。
 これは映画としては明らかに失敗だ。
 だって、あの両親、救う価値ないんだもの。欲にかられてるだけの「ブタ」だし。
 だから、千尋があの不思議な世界で「自立」出来るのであれば、元の世界に戻る理由はなくなっちゃうんだよね。

 ……でもその「失敗」の部分が面白いとも言えるのだ。
 小ぢんまりとまとまることを拒否しているという意味で。
 だけど、映画を見てる観客は「お父さんとお母さんと帰れて、めでたしめでたしだったね」としか受け取ってないみたいなんだよなあ。
 よく考えてみりゃ、あの親たち、性格は「ブタ」のまんまなんだが。

 千尋はホントに人間の世界に戻れてよかったのか?

 予想通り、グッズ売り場には客が殺到。
 しかも「ハク」の人形は今日が初日だと言うのにもう売り切れ。
 ……みんな美形が好きなんだなあ。

 あとは「オタクアミーゴス会議室」にUPした感想を貼り付けときますので、ご参照下さい。



 どうせ結構ヒットするだろうし、一月くらい経って人が少なくなってから行ったっていいだろうと思いつつ、結局初日に行ってしまいましたよ、『千と千尋の神隠し』。
 でも私もさすがにいいトシなので前日から並ぶ元気はない(元気がないだけで恥の感覚はありません)。
 夕方からそれでも結構並ばねばならんのだろうなあ、と思いつつ、天神東宝に向かっていたのですが。

 途中、博多駅前を通りました。
 扇千景さんが選挙カーの上から演説をしておられました。
 「日本が戦後50年で復興できたのはなぜでしょう。スシです。スシを食べてるからです。スシを食べていれば太りません。たまに太る人もいますが太りません。アメリカ人やイギリス人は今、日本人を見習ってスシバーに並んでいます」
 思わず自分の耳を疑いましたね。何を言うとんのやこのおばちゃん、これは選挙演説ではないのかと思いつつ、いや、今日は『千と千尋』を見に行くんだ、ちょっと聞いていたいけど、と後ろ髪を引かれつつ、天神に向かったら。
 天神にもいました。扇千景以上に強烈なのが。
 一応福岡ではオシャレな場所ってことになってる岩田屋G‐SIDEの広場中に響き渡る『つっぱりハイスクールロックンロール』。
 「みなさん! 横浜銀蝿のランです! 嵐と書いてランと読みます! 暑い中、福岡までやって参りました! 福岡は暑いです!」
 ……オマエがもっと暑苦しくしとるわ。

 しかし映画を見る前にこんなキツイ二連発をくらって、さて、それを上回る感動を与えてくれるのか『千と千尋』と思いながら見ました。
 で、結果はと言うと。


















 うーん。
 二十年前に見てたら興奮して「『千と千尋』はいいぞお!」と触れ回ってたでしょうねえ。
 いや、楽しめはしたんですよ。
 ああ、久しぶりに「宮崎駿のマンガ映画が復活した!」って気分に最初はなって。

 実際、次々と出てくる妖怪どもの個性と来たら、これまでの宮崎作品の中でも随一と言っていいくらいでした。
 しかもそれが単にキャラクター造形として勝れてるだけでなく、当然のごとく個々の仕草、動きの違いで表現されているんですから。
 その妖怪たちの「動き」がこの映画の主人公、千尋の動きを相対的に魅力的に見せることに成功しています。
 ひょろ長い手足の操り人形のようなぎこちない動きはそれだけでフリークス的。もちろん、人間であるからこそ彼女はこの神々の住む不思議の町ではフリークスなんですけど。
 千尋が最初は弱虫の女の子だったのに、どんどん御都合主義的に強くなっていくのも構わないんですよ。目から流れる涙が眼球以上に大きいくらいの大げさな表現になってたって、それはマンガ映画の許容されるべきウソなんですから。
 ああ、やっぱりマンガ映画は「知恵と勇気で誰かを救いにいく話」だよなあ、もう『もののけ姫』でテーマがどうのってのはいい加減、宮崎監督も飽きたろう、『長靴をはいた猫』や『カリオストロの城』の単純明快な感動がいよいよ再来か、と思ってたんですが。

 やっぱり出てくるんですねえ、エコロジーが。
 描写としてそうしつこくはない。まあ、ギリギリ鼻につかない程度だと言えるかもしれません。
 でも、ドロドロに腐ったクサレガミかと思っていたら、からだの中に詰まってた自転車だのリアカーだのといった人間の捨てたゴミを全て吐き出したらきれいな河の神に戻った、なんて描写は、ちょっとあからさまなんじゃないですかねえ。
 で、そういう点を突っ込んでいったら、矛盾もボロボロ目についてくるんですね。
 その自然の神々のヨゴレを洗い流す湯屋の湯を沸かすのに、人間が作ったような釜を使ってたり、エントツから煤煙を空に撒き散らしたりしてるのはどうしてなんだよ、とか。
 パンフレットで宮崎監督自身、「こういうテーマがあるとか現代をこう思うとか、ややこしい話とは違います。10歳くらいの小さな友人たちのために作ろうと思っただけなんです」とか言っときながらなぜ、中途半端にエコが混じちゃうんですかね。

 映画見終わったヤツで、やっぱりそういうこと話し合ってる連中がいるわけですわ。
 「あの河の神の意味はね」とか、「カオナシにはどんな意味があったんだ?」とか。
 女の子や子供が「ネズミがかわいかったね」とかしゃべってるほうがよっぽど感じがいい。
 結局、宮崎監督が何を作っても、「エコ」の残滓が残るようになっちゃってるってこと、また、そのせいで、観客や評論家も、そういう「テーマ」ばかりを拾い上げて「これはただのアニメーションではない」だのと、未だに「アニメの存在自体は下らないもの、でも宮崎アニメだけは別」とアニメをバカにするような発言をインプットされてしまってること、この二点に、宮崎監督の不幸があるんじゃないでしょうか。

 ああ、もう何の理屈もない、ただのB級活劇の宮崎アニメは見られないものなのでしょうか。それを切に望んでる人は多いと思うんですがねえ。



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