無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年06月03日(日) 全集員合(←解る人には解るね)/『だめだこりゃ』(いかりや長介)

 今朝の体重、85.4キロ。
 思わず胸をなでおろす。
 そうだよなあ、昨日のいきなりの87.0キロ、いくらなんでもそんなことあるはずないと思ってたけど、やっぱりメーター自体、イカレてたんだろうなあ。
 大したことなにもしてないのに一日で1.6キロも痩せるわきゃないわけだし、と、安堵の涙である。
 と言いつつ、今日のメーターの方が壊れてたんだったらどうしましょ(+_+)。

 FCOMEDYのオタアミ会議室、『メトロポリス』の感想がぼちぼち書きこまれている。
 しかも誰もアレを誉めようってヒトがいない。
 やっぱり言いだしっぺというか、勇み足のお調子モノが現われるのを、みなさん、手ぐすねして待っていたのだな(^^)。
 実際、まともな批評眼を持ってる人間だったら、いくら作画がよくたって(それにしたところで映画の表現としてみた場合、技術が先走るばかりで意足りず、といったレベルなのだが)、あの映画の出来が決して誉められたものではないということは判断がつくと思うのである。
 ダメな映画の見本みたいなもので、書きこみも実に具体的に『メトロポリス』のどこがどうダメなのか、客観的に分析している。
 仮にあれを誉めるってえと、「1+1が3になったっていいじゃないか」くらいのゴリ押しが必要になる。せめて「出来が悪いのはわかるんですけど、昔から大友さん好きなんで今回は勘弁してください」くらいの賛同者くらいはいるかな、と思っていたのだが、さすがにいくらオタアミのお歴々とは言え、アレを擁護する気にゃなれなかったのだろう。

 しかしである。世の中は広い。
 アレを誉める人が捜せばいるのですねえ。

 映画フォーラム、『メトロポリス』のオフィシャルサイト、大友克洋のファンページ、どちらかというと、このあたりの方々は賛否両論、いや、それどころか「ストーリーも作画もすばらしい!」と絶賛している御仁までおられるありさまである。
 基本的に私は、誰がどんな感想を抱こうが、それは別に構わないと思っているし、映画のイロハもわからぬやつがアレを褒め称えようが、まあ、我関せずをきめこんでりゃいいだけの話、と、鷹揚に構えていたのである。
 でもねえ、よく読んでみると、アレの賛同者って、やっぱただの信者なんだわ。
 手塚教、大友教、りんたろう教の信者。
 理論もへったくれもない。
 「アレの価値がわからぬやつはイカレてる」の一点張り。
 広義のカルト(「ダメ映画だけど好きだ!」)は映画の多様性を許容するもので、ファンシーンを活性化する働きがあるが、ほんまもんのカルトは始末に悪いだけだ。世界中のアニメーターたちが「ディズニーにあらずばアニメにあらず」の風潮を打ち壊していくのに半世紀をかけたことを忘れてはならない。
 大友やりんたろうごときが持ち上げられてカルトになっちゃったら、ほかのアニメが潰されちゃうぞ。
 まあ、これだけ百花繚乱たるアニメ大国の日本にあって、そこまでの事態に陥る心配はなかろうが(セルアニメ偏重というイビツさはあっても)、20年ほど前の一時期、SFファンの間で、平井和正が好きだと言っただけで「もしかしてオタク『幻魔』?」と揶揄されたごとく、「あんたオオトモ?」と言われるような状況になりつつあることを、かつて『童夢』の完結を一日千秋の思いで待ち続けた経験のある私は危惧するのである。

 ……そうだよう、好きだったんだよう、オオトモ(T_T)。なんでここまで落ちやがるんだよう。

 いいか、『アキラ』以降の大友しか知らない若きファンの諸君、今のオオトモは大友の皮をかぶった人間モドキだ。
 『童夢』を読め。
 『さよならニッポン』を読め。
 『気分はもう戦争』を読め。
 『ショートピース』を読め。
 『アキラ』が彼の最低作だということが理解できるだろう。
 日本のマンガシーンを塗り替えた「大友ショック」は、『アキラ』以前のことだったと、それはマンガ史に残る事実として、リアルタイムの体験者たちが正確に証言しておくべきことなのである。


 いかりや長介自伝『だめだこりゃ』読了。
 『8時だョ!全員集合』が視聴率40%を常時取りつづけるオバケ番組だったころには、あれが「東京の」笑いだとは殆ど認識していなかった。
 カトチャンは「スンズレイしました」のギャグで解る通り福島出身だったし、シムラの「東村山」だって関東ではあっても埼玉だ。
 いや、地方の笑い、というより全国区の笑い、という気がしていたのである。更に付け加えるなら、「東京の笑い」の代表は、そのころの私にとっては落語でありクレージーキャッツであったから。
 しかし、『全員集合』のギャグは、実の所、ほとんど「東京都墨田区出身」であるいかりや長介のイニシアチブのもとで創案されていたのである(もっともご先祖は新潟らしいが)。
 洗練された笑いにはほど遠い。
 ナマの勢いだけで見せている部分も多々あった。
 でも自伝を一読して、やはりあの番組は東京者の一徹さのもとに作り上げられていたのだなあと、思うに至った。
 プロデューサーの居作昌果(いづくりよしみ)が以前上梓した全員集合本と比較して読むと、『全員集合』が終了する際の事情が微妙に違う。
 居作氏は疲れの目立ついかりやさんにちょっと休んでもらうつもりだったという。しかしそれをいかりやさんは「肩たたき」と受け取った。
 居作氏は「あの時いかりやさんを引き止めるべきだった」と言い訳する。しかし、実際にはそれをしなかったのだから、ウソをついているのがどちらかは明白だ。
 いかりやさんは抗弁せずに身を引いた。それが江戸っ子(東京っ子?)というものなのだろう。

 この本の中に、いかりやさんの、いかにも東京っ子らしい、そして私の好きな文章が二箇所ある。
 プロローグの「注さんへ」の最後の部分。
 「これから、いろいろ記憶を辿っていこうとおもう。そうすれば、また荒井や時田(ジミー時田のこと)にも会えるだろう。」
 もう一つは、エピローグ、この本のシメの文章。
 「私の人生に残り時間がどれだけあるかはわからない。ただハッキリしていることは、これから先も『ザ・ドリフターズ』の名前の通り、漂流物のごとく、流され続けていくことだけだ。
 こんな人生があってもいいのだろう。」

 何年か前、同僚と「ドリフ」の話をしていて、調子に乗った私がドリフのギャグスケッチを十数個、舞台設定から人物配置、ストーリーの流れに至るまで、微に入り細に入り、ルーティーンの微妙な変化も含めて、立て続けに披露した時、「よく覚えてますね」と感心されたことがある。
 みんな「ちょっとだけよ」とか「カラスの勝手でしょ」とか、決めのセリフは覚えていても、スケッチの流れそのものは覚えていない人が多いのだ。
 「ドリフよりクレージーの方が面白い」というのが私の子供のころからの印象だったのだが、でもやっぱりドリフが好きだったんだと自覚させられた一瞬だった。

 今日は休日出勤だったのだが、仕事から帰って半日はひと寝入り、そのあと朝まで、更新し損なっていた日記を書きつづけて過ごした。
 読んだ本の感想くらいしか書くことないけど、こんなもんでカンベンしてください。



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藤原敬之(ふじわら・けいし)