無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年02月13日(火) 明日寂しい思いをする人は読まないで下さい/『コロンブスの航海』(J.P.チェゼラーニ)ほか

 気温は低いが日差しはまあまあ、このくらいの気候が私には一番しのぎやすい。睡眠も充分取っているので、朝も何とか起きられる。このまま雨が降らずにいてくれりゃあ万々歳なんだが。

 明日はバレンタインデイであるが、若者は起源たる殉教者バレンタインのことも知らず、「なんで女の方から男の方にコクらないかんと?」みたいな他愛無い文句を垂れていたりする。
 私なんぞはワケシリ顔で「あんなもん日本のチョコレート会社の策略だよ」なんてヒネたことを言うもんだから、若者から「夢がない」などと叩かれてしまうのである。もちろん、その仕立てられた「夢」とやらに乗っかってくれる連中がいないことには製菓会社の屋台骨は崩れてしまうし、ひいては景気の不振にもつながりかねないわけだから、世の女性が「うふ〜ん、あの人、私のこと振り向いてくれるかしら? ドキドキ」なんて腐れた頭を悩ませていることについて、いささかの文句をつけるつもりもない。押井守じゃないが「人間は虚構にのみ生きる価値を見出す」ものであるから。
 何にせよ、この程度の虚構にうかうか乗せられるってこたあ、誰ぞの言い草じゃないが平和な証拠である。もちろん、頭の中が平和なだけであって、こういう連中ほど、悪辣な為政者の手にかかれば自由自在に洗脳されて醜(しこ)の御楯と化し、「大君の辺にこそ死なめ」と死んでいくのである。……生まれた時代によっては私もその一員だったかな。
 でもハタチになろうってのに未だにサンタをマジで信じてるやつがいるのが日本人の現状だと言ったら(ウソではないぞ)、日本の為政者は喜ぶだろうか、悲しむだろうか。多分その「事実」から目を背けるんだろうな。

 女房から一日早くバレンタインチョコをもらう。ビニールカップにチョコを流しこんで、その中にフルタのチョコエッグのペット動物コレクションを仕込んでいる。芸が細かいんだか雑なんだか分らんな(^_^;)。
 先日よしひと嬢からもチョコをもらったので今年の収穫は多分この二個で打ち止めである。まあ妻帯者なんだからこれで満足せねばな……ってこのトシになってまだ何か期待しているのか。

 『國文学』の3月号、四方田犬彦が川端康成と映画の関係について紹介している。文学者と映画の関係、今やその間はいびつに乖離していて、活字と映像は別物、と解釈するのはごく当たり前、という感じの論評も多く目にするようになったが、かつての日本において、この二者は極めて近しい関係にあった。と言うか、文芸活動の一手法として映画が捉えられていた時代が結構長かったのである。
 四方田氏も指摘しているとおり、谷崎潤一郎がハリウッド喜劇の翻案的な『アマチュア倶楽部』を脚本執筆、制作したのを皮切りに(主演女優に手をつける第1号ともなったが)、大正から昭和初期に映画に関わった文学者を挙げていけば相当な数に上ることは間違いない。
 川端康成が五所平之助と組んだ『狂った一頁』、もう二十年来見たいと思いつつ未だに機会を得られないが、『カリガリ博士』などドイツ表現主義の影響下にある相当シュールな代物だと言うことは耳にしていた。実際、川端康成は、映画化された『伊豆の踊子』などのイメージから、純愛ロマンの作家と勘違いされている向きがあるが、立派な変態小説家である。……だから『伊豆の踊子』の原作じっくり読んでみなさいってば。教科書なんかじゃヤバイ表現相当カットしてるけど、明らかにあの学生、十四歳の踊子に肉欲感じてんだから。
 四方田氏、数ある『踊子』映画化の中で西河克己監督、山口百恵主演版が唯一、賎業としての踊子を描いている、と評価している。慧眼だなあ。昭和49年、私があの映画を始めて見たとき(11歳だよ……)、鮮明に記憶に残ったのは、ラストシーン、学生と別れた踊子がお座敷で酔客に抱きつかれ、顔を顰めるストップモーションであった。無論、その後踊子は、体を売る生活に入っていくのである。当時、ウチの親は「『伊豆の踊子』ならいいよ」、とおそらく田中絹代版を連想したのであろう、私が見に行くことをいとも簡単に許可したが、そんなインモラルな映画だったとは夢にも思ってなかったに違いない。つくづく親の無教養に感謝する次第である。
 いや、川端康成がヘンタイであるという話だ。それは作家としては全然悪いこっちゃない。変態と言うよりはっきり既知外と言った方が当たっている。『雪国』だって『古都』だって『山の音』だって、作者が幻聴幻視を起こしながらそのまんまのイメージで書いてんのよ。だからこそこの人の作品は小説も映画も海外の評価が高いのである。だって既知外の表現って、国の文化にとらわれない分、普遍性があるんだもの。

 『コロンブスの航海』(ピエロ・ベントゥーラ絵 ジァン・パオロ・チェゼラーニ文 吉田悟郎訳)読む。みんなアメリカ風に「コロンブス」と発音してるが、当時のスペイン語の発音で本人が実際に喋っていたのは「コロン」、生まれ故郷のジェノバの発音なら「コロンボ」、この本の原題でも「コロンボ」と表記されている。まあこの辺の知識は有名か。
 大型絵本の体裁なので、サンタ・マリア号の断面図なんかが描かれていて、本文よりそちらのほうに目が行く。船室は食料その他の荷物で手一杯で、船長のコロンブスの個室はあっても、船員部屋は全くない。90人からの船員はどうやって暮らしてたんだって、当然荷物の隙間を探して寝るのである。食料は長い航海の間で腐るものも多く、そうなると船の中は常に異臭が漂う状態になる。航海中何度も暴動が起こりそうになったということだが、そりゃそうだよな。
 一行がアメリカに着いて、現地人の「ハンモック」を見て、「これなら船の上でも寝られる!」ということでコロンブス以降の航海には船の上にハンモックが吊られることになったそうである。タバコがインディアンの文化だったってのは知ってたけどハンモックもだったのね。
 コロンブスは現地人に歓待されるが、その30年後にこのときの現地人は全て虐殺されることになる。恩を仇で返す、という感覚すらない。この時代の常識は「弱い者からは奪え」であるからだ。……今でも変わってないか(^_^;)。
 世界各地の侵略と虐殺の歴史を紐解いていけば、侵略を行ったことのない民族など存在しないことに気づく。それらは結局、「別に当時は悪いことでもなかったんだから仕方ないじゃん」という「未必の故意」と判断すべきものであって、それを責めだしたらキリがないのだ。なのに、どこぞのお国は他国の侵略についてはギャーギャー非難するくせに、自分達の過去の侵略行為については目をつぶってやがるんだよな。

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 仕事が長引いて帰宅が遅れる。しまった、『アルジュナ』録り損ねた。一時期沈滞気味だった「オタアミ会議室」が、このアニメのおかげで再び盛りあがってきているだけに見逃すまいと思っていたのになあ。エコロジーにかぶれた河森正治監督のコワレぶりが、往年の『マクロス』ファンにはイタくて仕方がないようだが、何を今更。ラブソングが宇宙人にカルチャーショックを起こさせるなんてアイデアを思いついた時点で既にイタイ人だったと思うがな。当時私は既に大学生だったが、『巨人の星』に突っ込み入れながら見るのと同じように、『マクロス』も笑って見てたぞ。高千穂遙が「ガキの恋愛描いてないでもっと大人になれよ」と言わずもがなの批評してたな。
 しかし意外なことに、河森監督、これがテレビシリーズ初監督なのだそうな。そう言われれば、『マクロス』も『エスカフローネ』も原作・脚本で監督は別の人に任せていた。『KENJIの春』は監督だけれど単発である(あれもどこか頭のネジが一つ飛んじゃってるようなアニメだったなあ。猫じゃなくて人間でやれよ、『銀河鉄道の夜』と違って実録なんだからさ。妹のトシが妙に色っぽいのがかえって不自然だぞ)。
 ……だとしたら河森さんもまだまだ新人、あまり突っ込んだって仕方ない気もするがなあ。
 『地球防衛家族』の方だけでも見ようかと思ったが、女房が『ついでにとんちんかん』の再放送のほうを見ていたので断念。無理して見ねばならぬほどの出来でもないし。『とんちんかん』、久しぶりに見るので声優などほぼ忘れている。そうか、アンディは島津冴子さんだったか。『アニメトピア』好きだったなあ。しかし漫画のギャグをアニメに移行するのはつくづく難しいと思う。間がまるで違うので笑えぬこと夥しい。特にジャンプ系列のギャグものは『Dr.スランプ』以降、『ONE PIECE』に至るまで、ほぼ全滅状態である。下手に原作ファンがついているので、アニメ的にいじれぬのがネックなのだろうな。絵柄もすっかり変えたかつての『ど根性ガエル』のようなことはもはやできないのだろう。……湯浅政明が作画した『ONE PIECE』なんか見てみたい気はするが。

 仕事帰りにコンビニで買ったハンバーグシチューとサイコロステーキで晩飯。女房、昼はインスタントラーメンで済ました模様。先日5個入りパックを買っておいたのだが、「醤油とんこつはうまいね」と言うので見てみるともう2個も減っている。非常食用のつもりだったんだが、そう言われると私も食べたくなる。
 女房が寝た後(別に寝静まるのを待ってたわけでもないが)一つ作って、目玉焼きと一緒にラーメンにぶっ掛け、ラーメンライスにしたところ、食べようとした瞬間、寝床から女房の「何食べよると〜」の声。……日頃一回寝入ったら、押しても引いても絶対起きないクセに、どうしてこいつは食い物の匂いにだけは反応するかな。結局、女房に半分以上平らげられる。まあ、カロリー高いし、半分くらいで丁度いいんだけれど。

 DVD『バスター・キートンボックス』五枚組、一部だけ見る。
 『キートンの文化生活一週間(マイホーム)』、あの台風で家が大回転する有名なギャグ・シークエンスのある本作、ロスコー“デブくん”アーパックルとのコンビを解消した直後の主演作なのである。しかも既に監督。初手から過激なギャグ作ってた人なんだなあ。当時の短編、設定があるだけで後はギャグでつなぎ、ストーリーの整合性は無視、というのが定番だったことがよく分る。何しろせっかく建てたマイホーム、壊れた途端にキートン夫妻は「まいっか」とそのままほったらかして去っていきジ・エンドなんだものな。
 『強盗騒動(悪太郎)』も脱獄犯に間違えられたキートン、警官から逃げ回るのはいいけれど、最後は濡れ衣を晴らすのかと思えば、結婚して終わりってどういう終わり方だ。もちろん、面白いからいいんだけど。
 チャップリンよりスラップスティックに徹しているのに日本での人気にえらく差があるのはチャップリンに作曲の才能があったことも大いに関連していると思う。NHKで放送される時もそうだが、伴奏が全く映像に寄与していないのである。アメリカも自国の文化に自信持ってるなら、もう少しまともな音楽つけたらどうだ。
 一編に見てしまうのはもったいないので、今日はこれだけ。続きは明日である。



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