無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年02月03日(土) 笑いの王国/『かめくん』(北野勇作)ほか

 今日も女房はずっと寝ている。昼夜逆転してるだけでなく、確実に一日12時間は寝ている。
 いいなあ。
 でも私も実は具合が悪くて仕事を休んで寝ていたのだ。すると、珍しくも久しぶりに夢に女房が出てきた。私はめったに女房の夢なんか見ないのだが、何を急にトチ狂ってしまったのだろうか。
 ところがこの夢、夢のクセに何の飛躍もないのである。ただただ女房とのごく普通の日常が続くばかり。退屈した私が冒険でもしようと思い立つのだが、どう冒険していいのかも分らない。「夢の中でもおまえとだとロマンの一つも思いつかんのだなあ」とタメイキをついた途端、目が覚めた。
 ……うーん、以前から女房との二人芝居がやれたらなあと思ってたんだが、深層意識は既に「それは無理」と答えを出しているのだろうか(^_^;)。

 パソコンにしがみついて、劇団のホームページの方の日記を懸命にこちらにコピーする作業。
 12月から11月と遡っていきながら、自分の過去の文章を読み返していくが、昔のことってホントに忘れているものである。備忘録のつもりもあって書いてきたが、こりゃマジで役に立つわ。
 単にこういう事実があった、ということだけではない、当時の感情が、多少の誇張があるとはいえ、文章からにじみ出ているのである。しかし、俺って、ウケねらいとは言え、ここまでぐーたらに自分のこと書かなくてもいいんじゃないかという気がしてくるなあ。でも真実を書くと、はっきり言ってシャレにならんのだ。
 感動させる文章、泣かせる文章、そういうものは実は意外と簡単に書ける。ただ、笑わせることはやはり至難のワザだ。これは意外と気づかれていないことだが、「泣き」のためのマニュアルは日本人は共通して持っているが、「笑い」については、そのフォーマット自体、実はまだ確立していないからだ。
 こう言いかえればわかりやすい。ある対象に対して「泣く」ことについてはタブーが殆ど存在しないが、「笑う」ことについてはそれが存在しているのだ。
 事故現場や葬式の最中に「笑う」ことはタブーだが、お笑い番組を見ながら泣いたって、そりゃ感覚が違うだけだろう、泣く人もいるさ、で済まされる問題である。タブーがないだけに、人は泣かそうと思えば泣かせやすいのである。
 なぜ「笑い」についてだけタブーがあるのか? 「泣き」と「笑い」がなぜ対照語として対置されているのか?
 「泣き」が基本的に対象とのシンパシーを築こうとする感覚であるのに対し、「笑い」は対象を拒絶し差別化することで成り立つ感覚である。当然、対象からの「反逆」が有り得るのは後者だけだ。「笑い」が人々の間に共通感覚として受け入れられるためには、その笑われる対象が明確に「差別されている」にもかかわらず、「これくらい別にいいじゃん」と考える人間の方が多いことが大切なのである。
 政治家が「笑われる」対象として選ばれやすいのは、世間のみんなが彼らが「権力者」であることを知っており、その権威を引き摺り下ろしたい衝動を我々が共通して持っているからにほかならない。
 だから、「弱者」に向けられる「笑い」はしばしばタブーとなる。それは多数の人々の共感を得られないからだ。
 「日記」を読み返して自分でもビックリしたのは、私のからかいの対象が見事なくらい「強者」にしか向けられていない点だ。これはかえって、嫌味ですらある。実のところ世の中の出来事や人々は簡単に「強者」と「弱者」に分別できるものでもない。複雑な状況を解き明かすわけでもなく、世間一般の常識に基いて「強弱」を規定した上に行われる「笑い」は実は大した批評性を持っていない。
 ……なんかそんなコムズカシイことまで、自分の日記を読み返しながら私は思っていたのである。大げさなこっちゃ。

 本棚をあさってみると、女房が読んだあと適当に突っ込んだままで、私がまだ読んでなかったマンガの類がゴッソリ出て来る。(その感想は明日書こう。今日はもう眠い)

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 で、続き。つい200番をゲットしてしまった。何人かにしか存在を教えてないのにカウント数がこれだけあるということは、少しは面白がってもらえてるのだろうか。反応を聞いてみたいが、読者の感想を書きこめるようなコンテンツは作れないのかな。

 北野勇作『かめくん』、デュアル文庫も次から次へと毛色の変わったモノを出してくれるなあ。私はハヤカワSFのJAシリーズ、角川文庫ジュブナイルシリーズ、あるいはソノラマ文庫に一番ハマった世代なので(ハヤカワの銀背には間に合わず、富士見ファンタジア文庫には今イチ燃えきれない)、このシリーズにはその頃の古きよきSFの雰囲気があるので、できるだけ買って行こうと考えているのである。
 この物語、設定はあるがメリハリのあるストーリーは特にない。と言うよりストーリーを必要としない。「木星戦争」に投入するために開発されたカメ型ヒューマノイド・レプリカメ。その一人(?)、「かめくん」の、地上での日常と思惟を坦々と語っていくというものだ。
 カメは結局カメだから、何か深い思索ができるわけでもない。ただのんびりとカメでいるだけである。しかし、ただのんびりと暮らしたことのある人なら気がつくことだと思うが、世の中はあまりにも苦しみ悩み、切なくなっている人たちで溢れかえっているのである。
 宇宙での戦いから帰還し、再び宇宙に旅立って行く。今度は無事帰還できるか分らない。つかの間の休憩の間の出来事。
 普通の日常が描かれているのに読後の印象がどうにもやるせないのは、この、人の好い、りんごが好きで、司書のミワコさんが好きで、平凡な日常が大好きなかめくんに、多分もう二度と会うことがないからだ。
 こういう「何となくSF」(今私が名づけた)、大好きなんだなあ。こういうのも書いてみたいなあ。

 マンガ、『ワンピース』17巻(尾田栄一郎)、ドラム島編、やっと終り。アラバスタ編もできたら3巻以上かけずにまとめてほしいなあ。でないといつまで経っても「ワンピース」の謎にたどり着けないぞ。でもこのままだと、最後の仲間、「音楽家」が登場するのは20巻以降か……? 既にポスト・鳥山明が尾田栄一郎であることはハッキリしてるのだから、リタイアさせるような仕打ちを編集部がしないことを望むまでである。
 『Q.E.D.』6巻(加藤元浩)、これも買っておいて女房が勝手にどこかにしまい込んでいたもの。主人公の燈馬想の妹が登場。エピソードごとに出来不出来が激しいが、今巻も多少、これは無理があるなあ、という感じが強い。偶然に頼り過ぎるトリック、底の浅い人間関係、プロットやストーリーの弱さももちろんだが、画力がミステリーに向いていないのもネックかも。……でも何話かに一つ、傑作書くこともあるんで、やめられないんだよなあ。
 『ダーリンは生モノにつき』5巻(吉原由起)、女房が思いきりハマって読んでるエロマンガ。もう5巻か。人気あるんだろうなあ。愛上さんも好きって言ってたし。二人ともこれはエロマンガではないと言い張っているが、「ちんこの曲がりぐあいも好きだよねーねー」なんてセリフが出てくるマンガがエロマンガでないとどうして言えよう。でも不思議だよな―。女の子って、「ちんちん」とか「ちんこ」とは口に出せても「ちんぽこ」は言えんのだ。世代によっても違うのかな。
 『ネコじゃないもん!』9巻(矢野健太郎)、惰性で買ってる第9巻、80年代前半の風俗、時代感覚を思い返すのには役立つか。主人公たちがデートが「名画座」に行くってのがいかにも時代。そうかあ、この頃の東京にはまだ名画座があったんだなあ。レンタルビデオでも下火になった今、もうちょっと持たしておいてくれれば、かえって今の方が名画座に行こうって若者も増えたかもしれないのになあ。
 『こち亀』123巻(秋本治)、25年前、ジャンプの新人賞を受賞した第一作の頃に、「『こち亀』は21世紀まで続くだろう」と予言していたら、バカ扱いされてたろうな。しかし未だに記号的な女しか書けない人だなあ。纏ちゃんみたいに活動的なキャラはまだ生きてるんだが。でも酔っ払った左近寺が「ときメモはギャルゲーじゃなくて純粋RPGだ〜」と叫ぶあたりは笑った。そうだったのか(^o^)。
 『藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版』7巻、シリーズなんでカットされるかと思っていた『夢カメラ』シリーズ、ちゃんと収録されていてよかったよかった。『スーパーマン左江内氏』は収録されるのかなあ? 巻末の藤本さんのご長女の解説で、藤本さんが「『ドラえもん』を止めさせてくれないんだ」と述懐していた、というのは、ああ、やっぱりなあ、という印象である。「手塚さんの『火の鳥』のような大長編を描きたい」と口にした時、ファンから「『ドラえもん』は大長編じゃないですか」と言われて苦笑いされていたというエピソードもどこかで見たか聞いたかした気がするが、藤本さんの心の葛藤を思わせる。

 夕方になって起きてきた女房に頼んで買い出しに行ってもらう。2500円しか渡してないのに、ほか弁を四人前も買ってきて、しかも頼んでおいた飲み物の類を買い忘れている。なぜもう少し慎ましやかに食えんかなあ。金がいくらあっても足りんぞ。
 喉あめを舐めながら、DVDで『ヤン・シュワンクマイエル短編集』を途中まで見る。

 夜、電話があって、鈴邑・愛上夫妻来る。ふなちゃんまた大きくなって既に10キロ。抱き上げると重い重い。
 「よだれ垂れますよ」と心配するお母さん。
 「赤ちゃんなら当たり前じゃん」
 愛上さんの話によれば、「汚いから赤ちゃん嫌い」という若い人も多いのだそうな。そんなのが子ども作ったりする世の中なんだよなあ。愛上さん、母親として世間の親子の絆の不在に関する憤懣を怒涛のごとく語る。でもあまりつっぱりすぎて無理はしないでほしいものである。
 ゆっくりとパソコンでホームページを見てもらったり、公演のアンケートの感想などを見てもらう。更に一緒に前回の公演のビデオを見る予定だったが、突然鈴邑君の携帯に電話がかかって、用事が出来て帰宅することに。
 というわけで明日もまたお二人(と赤ちゃん)は、ウチに来ることになったのであった。

 で、今日はこれで打ち止め。……今までで一番長く書いたかな。



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