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■ ジョニ・ミッチェルの空気。
ときどき、救いようのない深い絶望感におそわれる。
電話を切ったとき。 あまりにもお天気が良い庭が、リビングから見えているとき。 どこかの可愛らしい子どもをみたとき。
身体中というか、胃袋の内側とか、心臓の周りとか、脊髄の内側から恐ろしいほど重たく感じられるその実感としての絶望感。 将来のないものへ、身を投じようとしている自分にはたと気がつき、そこからは何も生まれないことを知っていた自分にばったりと出会い、瞬間そんな感覚が沸いてくる。
これほどひとを恋焦がれたことはあっただろうか。 しかし、それらもすべては、描かれない未来の幻影に身を投じた自分の本能としての感情に付随するもの。理性はそれを許してくれないはずなのに、わたしはその自分を殺す。もうひとりの自分のために。
ジョニ・ミッチェルなんか聴くからいけない。 "Both Sides Now" それでも、幾度でも繰り返しリピートして、わたしは自分をその空気のなかでおぼれさせる。涙だって流してやる。
この絶望は、わたしのなかからなくなることはない。 あのひとに恋焦がれる限り、なくならない。
それでも、他人に対しては、いつも幸せそうな顔をする。 いつだって、幸せそうな顔をしてあげる。愛する彼と幸せなのよ、と。実際、愛し愛されることは幸せなのだもの。嘘ではないのだから。
人間が生きていく限り、孤独はなくならない。 いつからか、誰かとあらゆることをシェアしようという気持ちが消えてしまった。もう、すべて語りたいことを語ることは無理なのだ。わたしの肉体から、すべての言葉を発することは、もう無理なのだ。 だからわたしは、微笑む。いくらだって、いつだってたくさん微笑んであげる。
ひとりの人生を考えるとき、何故かわたしは英国の古いフラットでひとり暮らしている自分を無意識に想像する。実際わたしが一年間暮らしたエディンバラの大学寮は、古い歴史的な建物の内装をきれいにしたもので、室内はけっこう新しい感じの印象があったけれど、想像の中のわたしは、白いペンキのはげた窓の木枠がきしむような、懐かしくて胸が締め付けられるような部屋にいる。そこで、たったひとり食事をしたり、風呂に入ったり、眠ったりする。
大学院生だったころはとても孤独だった。 まだ修士だったからましだったのかもしれないけれど、博士課程の学生はとても孤独そうだった。あのイメージが離れないのかもしれない。 とても皮肉なことに、わたしのこころが懐かしいと思う場所のひとつは、アフリカを抜かせば英国なのだ。しかも、英国のイメージはいつも孤独な生活とともにある。
ふと現実に戻れば、自分は日曜日の夕方に投げ出されている。 さっきまで、木陰で踊りを交えながら歌を歌っていた教会のひとたちはいなくなり、静かな夕暮れどきに近所の白人女性たちがテラスでお茶を飲むおしゃべりの声が聴こえる。
ジョニ・ミッチェルがいつの間にか終わっていた。
後悔は微塵もない。 ただ、絶望とともにあるだけ。
こんなわたしを、神さまが許してくれなかったとしても。
2006年10月14日(土)
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