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Montgomery Book

第2章 (2) アン・シリーズ
 一作目の「赤毛のアン」の成功以来、モードのもとには、もっとアンを読みたいという世界中の読者や出版社からの要望が絶え間なく波のように打ち寄せてきた。その要求に応えるため、モード自身はほとんどうんざりしていたアン・シリーズを書き続けたというが、書き始めればやはり楽しんでいたのだと思う。書き始めるまではなかなか気が乗らなかったが、意外と早く書きあげたといった記述も残っている。モードはアンのその後には興味がなかったかもしれないが、そこにアレンジとひねりを加えて、創作を愉しんだと思われる。

 というのも、アン・シリーズのそれぞれが、異なるスタイルで書かれているからだ。普通人気を獲得したシリーズは同じスタイルで書かれるはずだが、アンは明らかに異なっている。ただ、アヴォンリーから始まった、読者のなじみの世界での出来事なのを除いては。表面ではアンの人生の里程標を追いながら、もはやアンが影と化した作品もある。全巻を読んだ方ならアンの影の薄さに不可解な読後感を持つ方も多いだろう。各作品の背後には糸を操る創造主モードの意志が貫かれ、完全に作品をコントロールしているのだ。そこで、アン・シリーズをスタイルによって分類してみた。

赤毛のアン−−−−寓話・シンボリズム
アンの青春−−−−ロマンス小説
アンの愛情−−−−青春ドラマ
アンの幸福−−−−手紙文学
アンの夢の家−−−ミステリ
炉辺荘のアン−−−育児文学
虹の谷のアン−−−児童文学
アンの娘リラ−−−戦争文学

※「アンの友達」は、アンがほとんど出てこない短編集なので除く。
「アンをめぐる人々」は、加えて本人の意志に反して出版された短編集なので除く。

 「赤毛のアン」は巧みな寓話で、シンボリックな物語だ。ここでモードが描こうとしたのは少女の成長物語の枠を超えた、東洋・西洋の枠をも超えた世界観そのものではないだろうか。「光の子」として生を受けた(あるいはエイリアンである)アンという「魂」の、アヴォンリー世界への光の照射であり、世界に示されるアンの影響と恩恵であり、そこにはすべてが無駄なく関わりあい、あまねく光が存在する宇宙の原理が、あますところなく働いている。

 アンは、その必要があったからこそマリラとマシューの兄妹のもとへ遣わされた存在で、アンがいなければマリラの成長はなかっただろうし、リンド夫人は夫の死後行き場所をなくしただろうし、マシューの死後マリラはグリーンゲイブルズを手放すことになったはずだ。それ以前に「口のあたりに何か、もう少しどうかしたらユーモラスなものになる、と言えなくもない感じがただよっていた」(「赤毛のアン」)、マリラのユーモアのセンスも埋もれたままだったろう。アンが孤児の時にハモンドさんの双子を3組も世話していなかったら、親友のダイアナの妹を喉頭炎から救うこともなく、ダイアナの母に二人の交際のやり直しを許されることもなかった。そんな風にすべてのことがらが、伏線という以上の絡みあいをもって、一冊の本という小宇宙に形づくられているのだ。あたかもこの現実の世界でそうあるように。

 東洋の宗教も西洋のそれも教義の解釈は違えど、根本ではひとつことをいっているのだと思う。それを詳しく論じることはできないけれども。私なりに解釈するなら、東洋的な世界観とキリスト教的な日常のなかで織り上げられた物語、そして無数のフルネームの登場人物と実在する島を舞台にした物語、それが第一赤毛のアンだといえるだろう。自伝的要素が強いエミリー・シリーズと比べると、アンの第一作はさながらシンボリズム(象徴主義)絵画のようだ。主人公たちは与えられた役割を十二分にこなしながら、十二分に魅力的でもある。

 後に「アンの幸福」のなかで、氷のように打ち解けない同僚の教師カザリン・ブルックにアンはこう描写されている。

「でも、わたしがあんなにあなたを憎んだほんとうの理由は、まるで毎日の生活が冒険でもあるかのように、あなたがいつもなにか秘かな喜びを抱いているように見えるからなのだと思うの。憎らしいと思いながらも、ときにはあなたが遠い星の国から来た人とおなじだと、自分でもみとめることがあったのよ」

 意外にもアンシリーズのなかで、本当の意味でロマンスが主題とされているのは「アンの青春」だけだ。しかも真の主人公はアンとギルバートではない。ヒロインである山彦荘のミス・ラベンダーは、中年になっても色褪せない永遠の愛の化身として登場する。ミス・ラベンダーと元恋人との愛の理想が、山彦荘という俗世を離れたとっておきの舞台でアンの仲介により成就されていく。

 「アンの愛情」は青春ドラマで、アンとギルバートの二人の意識が友情から愛情へと変化するまでの、まわりの友人たちも織り込んだ、生き生きしたタペストリー。今でいうならTVドラマの「フレンズ」にも似たコメディタッチの作品。若さを引き立てるのは古い町であり、町の興味深い老人達でもある。舞台が島から本土のキングスポートへ移ってしまうが、アヴォンリーのマリラとリンド夫人のもとにも双子のデイビーとドラという新しい養いっ子の子どもたちが登場し、うまくバランスを取っている。

 手紙文学として分類した「アンの幸福」は、サマーサイドの中学校で校長を務めるアンが、キングスポートのレドモンド大学で医学生をしている婚約者ギルバートに宛てた手紙が、全体の3割余りを占めている。他の作品にも手紙はたくさん登場するし、ユーモラスな手紙を用いる手法はモードの真骨頂でもあるのだが、3割というのは他の作品にもなく、特筆に価する。

 「アンの夢の家」。名前からして、ファン待望のアンの新婚生活を克明に描いたものと思われるだろうが、そうではない。確かに、アンの結婚式から物語は始まるのだが…これはアンが語り部となっている、ミステリ仕立ての作品だ。主役はミステリに欠かせない影のある捉え難いブロンド美女、レスリー・ムアである。いつもどこかに紅いものを身につけていたい、と語る薄幸の美女。時に嵐に襲われる北海岸の美しい港町、フォア・ウィンズという魅惑的な舞台も設定されている。作家の醍醐味は、ときに弱さを見せ、ときには人を寄せつけない、それでいて人の心をひきつけてやまない「不幸な女」の大逆転を、いかに読者に悟られずに語り終えるかであったのだろう。魅力的なジム船長や女権論者ミス・コーネリアなどの隣人が織り成すエピソードを交えながら、物語は進む。ジム船長をはじめとする名脇役にも謎はある。探偵役は…しいていえばギルバートだろうが、問題の解決にはアンもアームチェア・ディテクティブなみに活躍している。モード自身この作品をアンシリーズのなかで最も気に入っていたらしいが、ここには北海岸の荒々しい海辺のように、ミステリの醍醐味が香り高く満ち満ちている。

 ただ、殺人は起こらない──いや、事故死はあったし、人が死なないわけではない、むしろ全体では沢山死ぬのだが、──そして最後のどんでん返しとカタルシス。先を読みたい思いに駆られる、という意味でも他のアンシリーズとは毛色の違う作品だ(普通は終って欲しくないと思うから)。はっきりいってしまえば、アンの世界と関係なく読めるミステリである。もっとも短編ではミステリ形式のものがけっこうあり、近年日本でも徐々に翻訳されている。モードはミステリを読むのもかなり好きだったというから、今後の翻訳にも期待したい。

そればかりか、同時代の本、雑誌、新聞のすべてを読み、また、毎日一、二冊の推理小説を読みこなしていたのです。

スチュアート・マクドナルド(モードの子息)/「運命の紡ぎ車」

 「虹の谷のアン」は、シリーズ中、子どもたちの視点で書かれた唯一のものなので、児童文学とした。アンの子どもたちが10歳前後の頃の話で、ここにはアンもほとんど登場しない。アンの子供たちと、近所の牧師館に住むメレディス家の子供たちのいきいきした生活が、共通の遊び場「虹の谷」をよりどころに描かれている。

 アンの子供たちのエピソード満載の「炉辺荘のアン」はシリーズ中最後に描かれており、年代的に最後になる「アンの娘リラ」より18年も後の1939年の作品(本となった最後の作品)なので、いってみればその間読者は「虹の谷のアン」によって、子育てをするアンのわずかなエピソードを窺い知るのみだったということになる。「もっと知りたい」と思うのも無理はない。「アンの幸福」もまた1936年と後発である。

 「炉辺荘のアン」では、子供の視点で書いた児童文学ではなく、子育て真っ盛りのイングルサイドの女主人、医師の妻で地域の奉仕活動にも参加するアンの多忙な主婦ぶりが細やかに描かれているので、育児ものに分類した。ちなみに、ジェム以降リラの手前、シャーリーまでの子供たちがどんな風に生れ出て来たのかは、わずかな追想を除けば、残念ながら未だに秘密のヴェールに包まれている。アンの老後についてもそうなのだが。

 1914年7月28日に開戦した第一次世界大戦。カナダも連合国軍として加わったこの戦争が「アンの娘リラ」ではアンの家族の生活にも大きな影を投げかけている。モード自身、大戦中1918年までに戦局についての9つの夢を見、登場人物のミス・オリバーのように、夢はすべて現実のものとなったと書いている。(「モンゴメリ書簡集1」。)モードの異母弟、カールもフランスに従軍した。

 モードが開戦直後の8月13日にはじめての息子を死産したことも、マクミラン宛ての書簡に書かれている。これは、イングルサイドに描かれた時代の前の時期、アンのジェム以降の子供たちの誕生をつぶさに描かなかった理由でもあるのだろう。ジェムの前に生れたジョイという娘が1日しか生きられなかったことを、モードは「夢の家」の年代記に遺している。

「アンの娘リラ」について
英語で書かれた小説のなかで、公の戦争と個人の戦いをこれほど感動的にまとめあげ、戦争中の出来事を効果的に分類して、わかりやすく構成したものはほかにない。

メアリー・ルピオ&エリザベス・ウォーターストーン
「<赤毛のアン>の素顔 L・M・モンゴメリー」

 「アン」の第一作は、4社(3社ともいわれる)から送り返された後、クローゼットにしまい込まれた。1年後、再び見つけたモードは少し手を加えた。そして、大文字とWのつぶれていない新しい中古のタイプで打ち直して、ボストンのL・C・ペイジ社に送った。もし、そうしなかったなら…などと心配することはない。素晴らしい作品は必ずその力で世に出るのだ。不世出の名作など存在しないと私は思っている。たとえ、一時的にポンペイの火山灰の下に埋もれようとも、後世の歴史家が必ずそれを掘り起こす情熱を持つだろう。世界はそういう作品、人の手で生み出された本物の味わいを絶えず待ち受けている。それこそが、この世界を生き抜く力を与えるものだから。言葉であろうと絵であろうと音楽であろうと、どのような芸術であろうと、真にすばらしい作品が永遠に作者以外の目にしか触れないということはあり得ない。もし、頭の中で思うだけでなく、形にしてしまいさえすれば。
参考文献
2001年04月05日(木)


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