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Montgomery Book

第2章 翼の贈りもの (1) もうひとりのモード

“I don’t know, but I can imagine.” 
「わからないわ。でも、想像はできる」

アン・シャーリー/「赤毛のアン」(拙訳)

 モードが生涯を通じて世界に送り出した、長編のヒロインたち。短編にも魅力的なヒロインは多いが、ここでは長編に絞って、モードの分身であった彼女たちのポートレートを描き出してみよう。カメラワークの技術が足りない分は、アンのように想像力で補うとして。アン・シャーリー、エミリー・B・スター、パット・ガーディナー、ジェーン・スチュアート、マリーゴールド、ストーリー・ガール、ヴァランシー・スターリング…彼女たちは皆それぞれに違っている。

 だが、ひとり残らず、共通するひとつの才能を、生みの親モードから受け継いでいる。それこそはモードが「翼の贈りもの」と呼んだちから、想像力、「もの想う力」なのだ。幼いアンがいみじくもこう断言するように、知らなくても想像することはできる。モードにとってこの才能こそは、自分らしく生きるための必須条件であったのだろう。はじめに想像ありき、である。

 赤毛のアン・シャーリーは、おそらく世界じゅうで最も想像力豊かな架空の少女である。アンが村の学校仲間と物語クラブをつくって想像力をはばたかせたり、自分の空想から生まれた恐怖の産物に参ってしまうくだりは、モードの実体験に基づいている。しかし、大人になってからのアンはというと、忙しい医師の妻として、子育てや地域活動に日々にめまぐるしく翻弄される主婦となり、子どもの頃抱いていたような作家活動への意欲はほとんど消えてしまう。反面、モードが作家活動と並行して現実に体験していた家庭での喜びや悲しみを伴った記憶、牧師の妻と医者の妻という似通った境遇は、おおいに反映されているといえるだろう。

「この子はすっかり計画をたててしまったのだよ」と、父は大西洋に話して聞かせたが、あとから付け加えた。
「あの大きな楓林にはきっとフクロウがいるよ」
「誰がフクロウなんか怖いもんですか」
「それに魔法のほうはどうかい、ジェーン?」
魔法だって?ここには魔法が身動きもできないほどつめ込まれていた。魔法の上に転びかかっているのだ。

「丘の家のジェーン」

 ジェーン・スチュアートは、「丘の家のジェーン」の主人公。晩年の作で、しかも1940年という最晩年に書き始められていた続編が未完となっているため、彼女が大人になってから何をしたがったのかはわからない。この物語とジェーンの体験に、私はつねづね深い癒しの力を感じている。執筆していた頃のモードは既に島を離れて久しく、故郷の島に焦がれる気持ちがジェーンの体験に昇華しているかのようだ。
 大都会トロントに母の一族と暮らしている11歳のジェーン。両親は健在ではあるが、さまざまな誤解や弱さの罠に屈し、母はトロント、父は島に別れ住んでいる。その年の夏、ジェーンは初めて島に住む父を訪ね、そこから自己の成長と、両親を再び家庭に取り戻すけん引役となってゆく。みずからを主張することを知り、人生を自分の手にする過程、ひとりの少女にとって非常に重要な時期が描かれている。ジェーンは「島」そのものとひとつになることで幸せをつかめると確信するかのように、感受性と受容の翼をはばたかせている。

決してこわれることのないダイヤモンドの芯に光る小さな青い輝きのように、美しい、はるかな、純粋に精神的な何かが心の中心に芽ばえた。どんな夢も、これにはかなわない。ヴァランシーはもう一人ではないのだ。世界中の、愛を知った女性の仲間入りをしたのだから。

「青い城」

 「青い城」の主人公はヴァランシー・スターリングという29歳のオールドミス。一族のなかでは醜いアヒルの子さながらにしいたげられている。アンやエミリー、パットたちと違い、幼馴染ではない男性との恋愛を通じて、女性として花開き成長してゆくヒロインである。ここでは愛するということへの彼女の深い感受性こそが、翼の贈りものと呼ぶにふさわしい主題。舞台もおなじみのプリンス・エドワード島には関係なく、自然豊かなオンタリオ州となっている。

人々は、生まれてから死ぬまでパットを求めた。パットは人々に笑いという贈物を与えるからである。

「パットお嬢さん」

 銀の森屋敷の女主人として家事のきりもりに意欲を燃やすパット・ガーディナーは、豊かな想像力や共感する力をもってはいるが、アンやエミリー、ストーリー・ガールのように創作的な活動は一切しない。そういう意味では、マリーゴールドも似たタイプのヒロインだといえるだろう。パットは家や家族を守ることにその全精力を注ぎ込む。その代わりにといっては語弊があるが、彼女は、病弱ではあるけれども、れっきとした母親を与えられている。ただ、この母親ほど影のうすい重要人物は、全作品を見渡しても探せないほどであるが。パットが家事以外の創造的活動に意欲を燃やさないことと、モードの晩年に生み出されたヒロインであることには関係があるのだろうか。といっても、エミリーで作家になる少女の半生を書いてしまったのだから、同じことを繰り返す必要もないのだが。

何年も前のこと、メイウッドのもとの家で眠っているエミリーの上に父が屈みこんで、こう言ったことがあった。
「この子は深く愛し──はげしく苦しみ──それを償う栄光の瞬間を味わうであろう」

「エミリーはのぼる」

 エミリー・バード・スターの三部作を読んでいると、芸術家という星のもとに生まれるということがどういうことか、「翼のおくりもの」が決して楽な生き方には直結しないことも含めて、モードがエミリーに託した想いの深さをうかがい知ることができる。ほんとうの意味で「書く」ヒロインは、エミリーだけであり、彼女だけが作家になった。いや、生まれついていた。

「でも興奮しない性質というのは愉快な思いをずいぶん逃しているんじゃないかしら。燃えさかる火のまわりで踊るほど素晴らしいことはありませんわ。たとえ最後は灰になってしまうとしてもかまわないじゃありませんか」

エミリー・スター/「エミリーはのぼる」
参考文献
2001年04月04日(水)


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