ケイケイの映画日記
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2024年12月03日(火) 「ふたりで終わらせる」




DVとは、どういう状態であるのか、何を差していうのか?そこが綿密に繊細に描かれている作品。扇情的に描くことなく、抑制の効いた、知的な作風で、とても感銘を受けましました。監督は相手役で出演している、ジャスティン・バルドーニ。今回ネタバレです。

花屋を開くのが夢の若い女性リリー(ブレイク・ライブラリー)。店を手伝ってくれるアリッサ(ジェニー・スレイト)の兄で、医師のライル(ジャスティン・バルドーニ)の真摯なアプローチに、身持ちの堅い彼女の気持ちもほぐれ、付き合う事に。リリーの母と三人で食事に行く事になります。その店は、偶然にもリリーの初恋の相手アトラス(ブランドン・スクレナー)のお店でした。

リリーとライルの出会い、ライルの妹アリッサが働くきっかけ、リリーとライルの再会。まるで古めかしい恋愛映画を観ているようで、少々退屈です。その後の、順調に愛と仕事を育むリリーの様子も、ライル兄妹が裕福なので、(ライルは脳神経外科医、リリーも市長の娘)ゴージャスな二人の愛の交歓の様子に、もうお腹いっぱい(笑)。それでも見目麗しい妙齢の男女のロマンス風景は、それなりには楽しめます。

それが一時間ほど続いたあと、これはこのお話しの壮大な序章で、後で思い返す時に必要だったんだなと、痛感します(なので、苦手な人は我慢してね)。

冒頭の出会いの時に、手術が上手く行かず、盛大にライルが椅子を蹴っ飛ばす様子で、テーマのDV男は、この男性だなと思いました。アトラスとリリーが恋仲だったのは、高校生の時。不仲で別れたわけではなく、懐かしさいっぱいの二人。私たち観客には、リリーは郷愁に駆られているのであって、過去の男性だと一線を引いているのが判ります。それがライルには判らない。

徐々に変貌していき、リリーに執着し始めるライル。二人がまだ恋愛関係で無かった時は、彼女の意思を尊重し、行為には及ばなかった人なのに。どこが線引きだったのか?私は「あなたを愛している。私はあなたのものよ」と、リリーが甘く囁いた時からだと思う。リリーには愛しい人への誓いの言葉だったのだけど、ライルはあの時からリリーの事は、愛しさでも、所有物めいて思えたのでしょう。

切欠は、毎回リリーからです。少々誤解されるようなシチュエーション、正直すぎる返事。一見上手く立ち回れない彼女に非があるように、作品は描きます。でもそうでしょうか?リリーはいつもライルの顔色を窺い、本心を言わないのは、正しいのか?違います。妻から自分の思う返答が無かったとして、暴力を振るうのが正しいのか?違います。結婚後、知らなかった相手の異性遍歴が露になった時、自分がバカにされたと、相手に暴力をふるって良いのか?違います。愛しているなら、パートナーを信じる、ではないかな?

暴力性は、人間なら誰しもが持つものだと、私は思っています。夫に暴力をふるう妻もいるし、他者に暴力をふるう人は、男女ともいます。それを抑制するのが、知性や理性ではないか?ライルは医師です。疑う事無く知能は高いでしょう。そこに惑わされてはいけないのでしょう。

実はリリーの亡き父親も、リリーの母である妻を殴る人でした。妻だけではなく、娘であるリリーをも傷つけていました。リリーは母に、何故離婚しなかったのかと問うと、「離婚は面倒だった。それに夫を愛していた」と答えます。

今の時代なら、問答無用で離婚でしょう。でもリリーの母は私と同世代。DVなんて言葉はなく、夫が妻を殴っても、殴られるような事をした妻が悪い、と言われた時代です。敬意を持たれるのは夫だけ。家庭の中で上下関係がある。人権意識も薄く、養って貰っているという負い目に、人として尊厳を奪われ続ける日々が、思考を鈍らし、離婚が面倒になる。そして経済的に自立していた女性は、圧倒的に少なかったはずです。

愛情は確かにあったのでしょう。でも「情」が強かったのでは?夫がある日を境に大人しくなるのですよ。それは妻が自分の母親になった時。夫として君臨するより、夫としてではなく、息子として妻に甘える方が心地よくなる。そして上下関係は逆転する。妻無くしては生活出来ない男の出来上がり。そこには男女の愛ではなく、家族の情は確かにあるでしょう。

私の姑は、これを「女は泣いて泣いて、泣き果てて、初めて幸せになれる」と言いました。でもそれは、妻としての幸せかしら?家庭の幸せと、妻の幸せは、イコールではありません。リリーの母の選択も、今の時代なら、違ったかもしれません。

リリーは確かにライルを愛していたと思います。アトラスよりも。生まれた娘に、ライルの亡き兄の名前をつけたのは何故か?不幸な形で兄を亡くした夫を、罪の意識から解放してあげたかったのでしょう。ライルのDVの原因も、そこにあると私も思います。彼を自制できる、知能と理性の比例する人に戻って貰うには、自分たちの存在は邪魔になるとの思いが、あの選択だったと思います。そこには情ではなく、痛みを伴いながらの、確かな愛があったと思います。

DVする人(次いでモラハラも)ってのはね、私は劣等感の強い人がするもの、だと思います。自分の過去を紐解く事から始める事も、映画の中で示唆しています。

敬愛する映画友達に、「ふたりで終わらせる」のふたりは、誰を指すのかと問われ、劇中の台詞通り、私はリリーと娘だと思うとお返事しました。でも原題のタイトルに入っているのは、「わたし達」。この方が作品には相応しいと思います。リリーを取り巻く人々が抱えていた葛藤は、全てDVに繋がっていたと思うから。リリーとライルの別れは、勇気あるものだと思います。








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