ケイケイの映画日記
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観てから二か月以上経ったのに、まだ感想が書けるくらい覚えているのは、この作品に力があるからです。都市でのロングランヒットで、地方の公開も始まっているようで、主人公・杏(河合優実)の事を、たくさんの人が知り、作り手の志の高いメッセージを受け取ることは、とても尊いことだと、私も思います。ですが尊いが故に、雑な脚本や作りが頭から離れず、それを中心に書こうと思います。監督は入江悠。
自堕落な母親(河井青葉)に育てられ、若くして覚醒剤に溺れ売春している杏(河合優実)。ゴミ屋敷のような家で、祖母(広岡百合子)と三人暮らしです。ある日警察に逮捕され、そこで知り合った刑事の多々羅(佐藤二朗)から、自助グループへの参加を勧められます。多々羅やジャーナリストの桐野(稲垣吾郎)の助言によって、生きる道しるべを持った杏は、家を出て介護施設で仕事を始めます。順調に生活が回り始めた頃、世の中をコロナ禍が襲います。
新聞の記事より、監督が想起して描いた内容なので、フィクションです。しかし脚本が雑で、ちぐはぐな箇所が多いのです。特に後半。
前半はあまり問題は感じませんでした。家では虐待、ろくに小学校も行けず、12歳の時には、母親の強制で既に売春をさせられる杏。客によって覚醒剤を打たれ、稼いだお金はほぼ全て母親が使っているのでしょう。ほとんどの観客が、観ていて辛かったはず。
まともな大人は知らずに育った彼女が、多々羅や桐野と知り合い、初めて信頼できる「大人」と接し、ぐんぐん人として成長していく様子は、目を見張ります。彼女が本来持っていた、人としての人格の高さ、優秀さを感じずにはいられません。如何に環境が人の成育を左右するかを表している。
コロナ禍により、仕事は待機、通い始めた夜間中学も休学、自助グループもある理由があり、活動停止。杏なりの豊かな人生が芽吹いたばかりの時に、芽を摘み取られたわけです。人と接する環境は、人生の充実や成長と密接に関わっているのが汲み取れます。
ここまではとてもいい。しかし、杏を執拗に追い回す母は、お金だけの問題で娘に固執しているわけではないようです。娘を「ママ」と呼ぶ母など、私は見た事がない。明らかに祖母と母、母と杏の関係性に歪みがあると感じますが、映画はその事を問わない。杏は自分に優しかった祖母に愛着があると言いますが、一緒に暮らしているのに、自分の娘の孫への虐待に何も言わない祖母が、良い祖母なのか?そんな訳ないです。昔から今のような、か弱い老女ではなかったはずですから。杏の母は、自分の母親を邪魔に思いながらも、捨てる事もしません。
普通に想起して、祖母と母にも、似たような確執があったと考えられます。杏を知るだけでいいの?問題提起したいのなら、母の過去にも言及すべきだと思います。そして杏の父は?その事にも言及がない。離婚か死別か、それとも父がわからないのか、それも言及無し。片手落ちです。この母を観て、怒らない人はいません。でも一方的に母親だけの問題ではないはずです。
そして痛感するのは、無知は罪だという事です。ここまで来ると、行政の助けなしには、立ち直れません。警察に逮捕されるかもですが、それはチャンスです。事実、杏はそこから自立が始まりました。助けてと叫ぶ事が、如何に大切か、「市子」を観た時の感覚が蘇ります。
杏の落ち着いた先は、DV被害者などを保護するシェルターのようです。しかしコロナ禍以降の描き方が、本当に謎。シェルターに入ったという事は、行政と繋がったのでしょう。杏の担当のケースワーカーが付くのでは?多々羅や桐野とは別に、彼女を導く存在が与えられるはずです。
早見あかり演じる母親も謎。多分同じシェルターの住人なのでしょう。夫に見つかったのか、いきなり最低限のものだけを渡して、見ず知らずの杏に、まだ赤ちゃんの我が子を託す。いやもう、本当に有り得ませんよ。
赤ちゃんを世話する間に、母性が育ち、生き甲斐になる杏。言いたいことは解りますが、いきなりこれくらいの子を預けられ、世話を出来るはずがない。いくらネットで育児について学ぼうが、想定通りに行かないのが育児です。実の母親だって、ノイローゼになるほどなのに、杏と赤ちゃんの幸せそうな姿のみ映す。この短絡的な描き方は、正直怒りが込み上げました。育児を舐めて貰っては困る。
そして簡単に杏の母が施設内に入ってしまう。管理人が居るとのセリフがありましたが、有り得ません。監視カメラがあちこちに付いているはずで、杏が母に連れ去られた後は、大騒動のはずです。
また売春を強要され、家に帰ってみれば赤ちゃんはいない。母に問うと児相に預けたと言います。このゴミ屋敷の家と、杏の母の身なりを観て、仮に児相が直ぐ来ても、まず警察に誘拐など事件性がないか、連絡するのでは?そうなると、母にも杏にも事情聴取があるはずでが、それも無い。早見あかりの母親も、簡単に見知らぬ杏に子供を預けてしまう、問題ありの母です。たった一日やそこらで、子供は返して貰えません。本当に雑過ぎです。
多々羅の造形もなぁ。あんな形で二面性を表現する必要があったんだろうか?自助グループの閉鎖は、普通にコロナ禍のせいで通じます。却って散漫になった気がします。風変わりな刑事のままで良かったと思います。その分、もっとディティールに拘って、杏と母親にフォーカスした方が、より「あんのこと」が浮かび上がったと思うと、とても残念です。上記により、志は受け取れたものの、作品から感慨を受ける事は、出来ませんでした。
この作品と似たような成り立ちの「夜明けまでバス停で」は、途中から人を食ったような展開になり、あれあれ?と、予想だにしない展開にびっくりしました。私が感じる限り、映画的な、とても丁寧で愉快な「嘘」の仕込みが利いていたように感じ、鑑賞後は思いもよらぬ痛快感でした。その痛快さは、苦境に身を置く人たちへ、負けないで欲しいとのメッセージではないでしょうか?
「あんのこと」は、何て悲惨なと、同情心だけを抱いて貰うだけでいいのでしょうか?その先を考える指針が、この作品にあったでしょうか?映画はどんなに作り込んでも、結局は嘘です。でもその嘘を通じて、感動を与えて感受性や感性を磨き、知識を得、観客の人生に入り込んで行くものだと、私は思っています。そのためには、しっかりした作り込みをして、嘘を本当のように思わせて欲しいのです。
色々苦言を書きましたが、熱意は充分に感じました。それが高評価に繋がっていると思います。もしまた入江監督が、もがき苦しむ人を主軸に据えた作品を作るなら、大いに期待して観に行きたいと思います。
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