ケイケイの映画日記
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2024年06月19日(水) 「蛇の道」




美しさの定義も多様性が尊重される中、今でも百花繚乱のエンタメ界隈で、私が一番美しいと思うのが、今作主演の柴咲コウ。ゴージャスな美貌の持ち主なのに、派手なケバケバしさは無く、艶っぽい役柄も選ばず、知的なクールビューティーなイメージです。その彼女が、全編完璧なフランス語の台詞で挑んだ作品です。多分ツッコミ上等で作っているんだろうなぁ。好きな人は大好き、ダメな人は罵詈雑言の作品だと思う。私は絶賛ではないですが、充分魅了されました。監督は黒沢清。監督のセルフリメイク作です。

8歳の娘が何者かに殺されたアルベール(ダミアン・ボナール)。心労で心療内科に通院している時、医師の小夜子(柴咲コウ)と知り合います。彼女の協力を得て、娘の死に関わるラヴァル(マチュー・アマルリック)や、ゲラン(グレごワール・ゴラン)を次々拉致する二人でしたが、真相に近づくに連れて、思いもよらない展開が待ち受けていました。

と書きましたが、だいたい途中で真相は解ります。見ものなのは、真相に近づく過程だと思う。道の往来で、あんなドンゴロスみたいな袋を引きづっていたら、衆人の目に着くだろうし、拉致の目撃者もいるのに、警察に通報しない。というか、警察の尋問も、「日本人ですよ、アニメですよ」で通り抜けちゃう雑さです。それ以上に、きちんと診察している場面もあるのに、どうして小夜子は拉致監禁の時間が取れるのか?でもそんなの、爪の先程も気になりませんでした。枯れ葉になっていく枝葉なんか、気にしない気にしない。

あのドンゴロスみたいなのは、遺体を入れる袋だったと思います(小夜子は医師)。あそこに入れる、自ら入るというのは、死を意味していたのだと思います。監禁した者には、直接の暴力だけではなく、食欲や排せつという、人間の本能や尊厳を奪い取る様子が描かれます。執拗に何度も描くのは、監禁された人の希望や思考を奪い取るためでしょう。そうさせるには、何故か?相手に対する憎悪です。

恨みを晴らしたいのは自分の筈なのに、どこか逃げ腰のアルベール。娘の死は、自分の行いの地続きであると、心の隅では解っていたはず。その思いを追いやる事に、必死だったのでしょう。自分は被害者であると思い込みたいのです。その卑小さが、見え隠れする演出が上手い。

患者の吉村(西島秀俊)との診察シーンが二度出てきます。一見回復に向かっているような吉村でしたが、小夜子の言葉で、吉村のその後の行動は、予見できました。小夜子は彼が鬱陶しかったから、その言葉をかけたのでは無いと思う。小夜子自身の気持ちだったのでしょう。

終始一貫無表情の小夜子。ゲランに「蛇のような目」で表現されます。彼女は元々そのような目では、なかったはず。あるアジトで木霊のように繰り返す彼女の言葉。何十回と繰り返していた、アルベールの娘の最後も、吹っ飛ばしてしまう程に、心が痛む。

小夜子が何故吉村にならなかったのか?憎悪が彼女を支えていたのだと思う。その憎悪を紐解けば、このお話は、何て辛くて哀しいお話しなのかしらと、思うわけです。

その小夜子に「元気そうだ。穏やかな目をしている」と言い放つ夫(青木崇高)は、「あなたが殺したのね」と言われて、当然だと思いました。この目のどこが穏やかなのか。夫婦で乗り越えるべき事だったのに、夫には人生の過去にあった一コマなのです。

期待の柴咲コウが素晴らしい。私はフランス語は解らないので、上手いのかどうかは判りませんが、耳に聞く限り、フランス人俳優たちと遜色はなかったです。美貌も一切見劣り無し。元作から主人公を女性の変えて、私にはとても共感できる役作り、役柄でした。「蛇の目」には、狂気も憎悪も哀しみも、宿っていたと思います。

黒沢清はあまり縁がなく、特に「トウキョウソナタ」が全然ダメだったので、以降素通りでしたが、「クリーピー」は、楽しんだのよね。私が監督に追いついてきたのかしら?続けて他の作品も観たくなりました。










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