ケイケイの映画日記
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鑑賞前は、アウシュビッツの収容所の隣で平気で住める家族を、人としての心が無いと、静かに糾弾する作品だと思っていました。それは違っていました。作り手が訴えているのは、誰でもこの人たちになる可能性があるという、恐ろしさでした。ジョナサン・グレイザー。
たくさんのユダヤ人が収容されているアウシュビッツ収容所。壁一枚隔てただけの、その隣の邸宅では、何事もなく、ナチスの親衛隊の将校であるルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)と妻のヘートウィヒ(ザンドラ・フュラー)夫婦と子供たちが、平穏な日常を送っていました。
観ていてずっと、これが「ハンナ・アーレント」で貫かれていた、「凡庸な悪」なのだと感じていました。「世界で一番の悪は、ごく平凡な人間が行う悪である」です。そこには信念も悪魔的な意図もない。それが淡々と描かていました。
収容所の中は一切描かれません。しかしもくもくと昇る煙は、たくさんのユダヤ人を焼いているんだと解ります。銃声も度々聞こえる中、収容されたユダヤ人たちの悲鳴も聞こえていたはず。それなのに、お屋敷に住むヘス一家は、贅の限りを尽くした暮らしぶりで、一見幸せそのものです。収容所に関心すら持たない。
花を愛で、ご馳走を食べ、可愛い子供たちは健康に育ち、夫は愛妻家。ごく平凡な人たちです。しかし、裏側では、妻はユダヤ人たちから、剝ぎ取った毛皮をまとい、子供はユダヤ人の死体から取り出した、歯を弄ぶ。温室でガス室ごっこ。年長の子は、メイドと火遊び。妻は体裁だけの幸せを愛し、育児もメイド任せ。夫は愛妻家ではなく、妻の尻に敷かれた恐妻家です。観客から観ると、幸福とは程遠いのに、彼らは観ないふりをしているのではなく、この張りぼての幸福が何か、本当に解らないのです。
何故はりぼての幸福で満足できるのか?良心を置いてきたのではなく、放棄したからだと思いました。アーレントの言う、思考の停止です。放棄しなかった妻の母は、その呵責に耐えられなくなり、豪邸から逃げ出す。会話から妻の母は、元はメイド上がりの様です。元は貧しい暮らしだったと想起しました。今の贅沢な暮らしに憧れ、その憧れが野心となり、手放すもんかの欲となる。妻の心境は共感できずとも、誰もが紐解け、誰しもが妻になり得る危険があるのだと思いました。
時折出てくる影絵風のシーンが印象的。息を殺して、ナチスの抵抗勢力として生きている人たち。真っ暗闇の中、彼らの希望を失わない、強い生命力を感じる演出は、ヘス夫妻との対比にように感じます。「ハーツ&マインド」に出て来た、子供が全て戦争で死んでしまった老人が、「ベトナムは灰になっても、何度でも戦う」と、カッと目を見開いて力強く語った姿を、思い出しました。
病に侵されたヘスが見た「未来」は、凡庸な悪の終焉です。ヘスの肉体を使い、表現していたと感じました。
この作品は、ナチスへの糾弾でも、ドイツが過去を振り返っての贖罪でもありません。「凡庸な悪」は、ナチスだけではなく、地球上のあちこちに蔓延っていて、日常生活の延長なのだと感じます。私は暗澹たる想いではなく、身が引き締まる想いでした。監督のグレイザーはイギリス人。ドイツ人ではない人が作ることで、その意を汲む事が出来るかと思います。
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