ケイケイの映画日記
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2017年01月25日(水) |
「沈黙-サイレンス-」 |
中学生の頃、一連の「狐狸庵VSマンボウ」を楽しんで読んでいた私は、次に「ドクトル・マンボウ航海記」にも手を伸ばしました。わ〜面白かった。じゃあ次は狐狸庵先生だねと、手を取ったのが、この作品の原作。しかし(笑)。まだ中学生には読めども読めども、全然面白くなく、途中であえなく玉砕。まぁ中学生だったので無理からぬ話ですが、今回の映画化も162分の長尺で、退屈だったらどうしよう?と、怯みながら後ろ向きの鑑賞前でしたが、一切杞憂に終わりました。素晴らしかったです。難解な問答を、誰にでも解り易く描き、深く掘り下げた作品で、私的に傑作だと思います。監督はマーティン・スコセッシ。
17世紀。日本で布教活動を行っていた、高名な宣教師フェレイラ(リーアム・ニーソン)が、拷問に耐えかねて棄教したと、教会に届きます。フェレイラの弟子のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルベ(アダム・ドライヴァー)は、危険を顧みず、フェレイラ探しを兼ねて、日本への布教を志願します。二人は日本人のキチジロー(窪塚洋介)の道先案内で、長崎の貧しい村へとたどり着き、モキチ(塚本晋也)たち信徒に、引き合わせて貰います。
まず素晴らしいと思った点は、とにかく解り易い。生死を賭けて信仰心を守り続けるのか?それとも、一旦引いて、生き延びる方が大事なのか?そしてその生死が、自分の決断により、他者に及んだら?これが、パードレ(神父)や信徒の農民たちで、繰り返し描かれます。頭ではすぐ答えが出るのに、その度に心が揺らぐのです。激しい拷問に殉教する人々を、どこか美しいと思ってしまう自分が、とても意外でした。
思うに、殉教する信徒たちは、拷問より辛い日常を送っていたのではないか?そしてキリスト教を信仰する事により、死ねば「パライソ(パラダイス=天国)に行けると思い込んでいる。
宗教が人々の安寧な生活と生きる喜びを導くものとは表面で、裏では国家勢力の拡大に伴い、戦争まで引き起こしているのは、周知の事実。とても生臭いものであるのも事実。それを危惧しての、幕府の弾圧だと言うのも、きちんと盛り込んでいます。下手に知恵を付けられて、貧しき信徒に暴動など起されては困るから。
なのでキリスト教を憎んでも、信徒たちは棄教すれば許される。この事がインプットされたのは、取り締まる奉行の井上(イッセー尾形)の存在です。凄惨な拷問を指示しながら、飴と鞭を使い分け、老練な手練手管でロドリゴを追いつめる井上。しかしながら、清濁飲み合わせる風格と、非情なだけではない、懐の深さも感じます。イッセー尾形が見事に演じて、監督の期待に応えていました。
ただ、この井上様、確か転び伴天連だったと記憶しています。私はそれを知っていたので、キリスト教を学んだ上での行いと、井上が解り易かったのですが、劇中それは描かれていたかしら?
もう一人、印象的な存在がキチジロー。彼が一番共感出来る人は多いのでは?私もそうです。生きるために泣く泣く踏み絵を踏み、脅されてはロドリゴを売り、何度も何度も告解をして、キリスト教信徒に戻っては、また裏切る。下俗で狡猾なようで、一番信仰を欲していたキチジロー。キリスト教徒に戻っても、何の得にもならないのに、それでも信仰を欲する彼こそ、一番にキリスト教の素晴らしさを体現していたのではないでしょうか?
棄教か殉教か?壮絶な葛藤に身を置くロドリゴに、沈黙し続けた神が、彼に語りかけます。あれは私は、ロドリゴの内面の声だと思うのです。神は内なり、そう描いたのかと感じました。
宗教は長い年月を掛けて受け継がれるもの。それがその時代時代のリーダーによって、自分の思惑や感情が混じってしまうと思うのです。それが神の教えだと言い伝えられ、その次に受け継ぐ者もまた、自分の感情を入れ込む。末端の信者は、正しく教えを受け継いだ人を、師に選ぶリテラシーを持たなくてはいけないのだと思います。棄教してしまったロドリゴですが、煮え湯を飲まされたキチジローが、最後まで彼に寄り添い、ロドリゴがキチジローに「ありがとう」と言葉をかけた時、初めてこの厳しい作品中、涙が出ました。ロドリゴは立派な神父です。
フェレイラは、「日本は沼地で、キリスト教は育たない」と言います。かつて沼地であったのに、立派に信仰者は増えている。それはキリスト教だけが偉かったのではなく、日本と言う国が、成熟したから。それが一番だと思います。決して沼地に戻りませんように、切に願います。
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