ケイケイの映画日記
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2015年09月12日(土) |
「あの日のように抱きしめて」 |
痛切極まりない女心をメロドロマとして描きながら、その奥に、厳しく戦争のの罪を問い、ドイツのユダヤ人を尊重する永遠の決意を感じさせる秀作です。監督はクリスティアン・ペッツォルト。
終戦直後のベルリン。奇跡的に収容所から帰還したネリー(ニーナ・ホス)。しかし顔に大怪我を負っており、友人レネ(ニーナ・クンツェンドルフ)の手助けによって、複願手術を受けます。レネはパレスチナに新しく建国するユダヤ人の国家で一緒に再出発しようと、ネリーを誘います。しかしネリーは、彼女をナチスに「売った」疑いのある夫ジョニー(ロナルト・ツァフェルト)を探したいと言います。夜な夜な出歩き、ジョニーを探すネリー。やっと見つけた夫はしかし、妻がわかりません。それどころか、死んだネリーの遺産が入るので、ネリーのふりをしてお金を騙し取ろうと、「本物」のネリーに持ちかけます。夫を忘れられないネリーは、レネの不幸になると言うレネの助言を跳ね除けて、ジョニーと奇妙な同居を始めます。
誰もがすぐに「本物」のネリーと認識するのに、夫だけわからない。声も筆跡も骨格も同じ本人。とても不自然です。でもそれは、人は観たいようにものを観るのと同じで、観たくないものは、観えないのじゃないか?段々とそう思えてきました。ジョニーは先にナチスに捕まり、妻の居所を白状させられています。多分拷問もあったでしょう。結果的には妻を売った、その罪悪感から逃れるには、妻が死んでいないと苦し過ぎるのです。
大きな目をいっぱい見開いて、夫だけを見つめるネリー。ほとばしる女心は、観ていて辛い。彼女は違う顔にも出来るのに、元の顔をと望みました。それは夫にすぐわかるようにとの思いと共に、自分が一番幸せだった時を取り戻す事で、凄惨な収容所での生活を忘れ、再生への道としたいのだと感じます。
対するレネは、ドイツに住み続けるのは嫌だと言います。彼女は収容所には送られていないようで、この地で逃げ惑う生活をしていたのでしょう。彼女もまた計り知れない傷を負っている。ネリーがジョニーとの愛に生きる希望を見出したいように、レネもまた、収容所からの奇跡の生還を果たしたネリーと行動を共にすることで、自分の再生の一歩にしたかったのだと思います。ネリーはレネに取って、希望の光だったのだと、私には思えました。
「私はユダヤ人じゃないわ」と言うネリー。「ユダヤ人だから捕まったのよ」と言うレネとの会話が、個人的に強く印象に残っています。ネリーは両親のどちらかがユダヤ人で、あまりユダヤ的日常を送っていなかったのかと想像しました。
ユダヤ人としての意識が薄かったネリーに、命がけで思いを託したレネ。ナチスやそれに加担した人を、決して許してはいけないのだと言うのが、私はこの作品に隠されたテーマだと思うのです。そう思えば、心ならずも妻を売ってしまったジョニーもまた、ナチスの被害者では?友人の居る場所から遠く離れ、ひっそり、うらぶれた生活をしているジョニー。それは妻への贖罪のように思えます。彼こそ、妻の面影から逃げられなかったのではないか?だから極めつけの悪党になって、自分は元から卑劣な人間だったのだと、自分を納得させようとしたのかも。
囁くようにネリーが歌う「スピーク・ロウ」が、段々と力強く聞こえ始めた頃、この作品は鮮やかに幕切れします。輝く日の光を浴びるネリーは、レネの想いもジョニーの想いも、深く包み込み力強さを感じます。原題は「PHOENIX」。ジョニーの働いているバーの店名ですが、そこにネリーの未来が込められているのは、明白です。
鑑賞後、とても後を引く作品です。哀しい甘美さに彩られながら、見事に反戦の心を感じる作品。この監督・主演二人がコラボした前作「東ベルリンから来た女」も、是非観たく思いました。
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