ケイケイの映画日記
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2009年10月14日(水) 「ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜」




連休最終日に観ました。原作は高校生の時に読んだきりで、あまり覚えていなかったのですが、映画が進むうち、あぁ確かに悲惨なはずなのに、こんなおかし味のある雰囲気だったなと、思い出しました。しっかりと作り込んだ終戦直後の風景の中、放蕩者の夫としっかり者の妻の「別れぬ理由」を、ユーモアをたたえながら、しっとりと描いていた秀作です。

終戦直後の東京。作家の大谷(浅野忠信)は、ありあまる才能がありながら、酒と女に身をやつし家庭は顧みないので、妻佐知(松たか子)と幼い息子は貧乏暮らしです。馴染みの椿屋から金を持ちだした大谷の借金を返す為、佐知は椿屋で働くことに。気立てが良く器量良しの佐知は、あっと言う間に店の人気者に。佐知に恋する常連客の岡田(妻夫木聡)や、かつて佐知が憧れていた弁護士の辻(堤真一)が妻の前に現れて、嫉妬する大谷。どんどん魅力的になっていく妻が不貞を働いているのかと、邪推します。

と、こういうストーリーなので、まんま原作者の太宰の私小説って感じですが。心中未遂までするしね。

美術が素晴らしいと聞いて、とても楽しみにしていましたが、なるほど本当にセットから人物まで、しっかりと作っていました。もちろん私も終戦直後など知りませんが、子供の頃、テレビで観ていた昔の邦画の風景が、色つきで再現されていました(モノクロ作品が多かった)。脇役から子供まで、妙なイケメンや美女もおらず、当時の雰囲気がよく再現されていました。

大谷は自堕落で無頼な男ではありますが、妻に暴力をふるったり蔑んだ物言いをするわけでもなく、極めて紳士的ですらあります。普通なら家に金も入れず、女とほっつき歩いて深い仲になる夫など、顔を観れば喧嘩になるはずですが、この妻の方も鷹揚に構えています。ある意味お似合い。

大谷は「私は未だにあの人(妻)がよくわかりません」と語ります。椿屋では客あしらいも上手く、明るく可愛い「椿屋のさっちゃん」、椿屋の主人夫婦(伊武雅刀・室井滋)の前では、夫に尽くす健気な人妻。しかし確かに大谷の前では、謎めいて見えます。一円のお金もないのに何とかしてしまう性根の座り方は、極道の女も真っ青だし、夫に不貞を邪推され涙ぐむ様子を、大谷が「またそんな商売女の様な真似を・・・」と言った時は、私も全く同じ事を感じていたので、思わずクスクス。

普通なら夫のために酌婦のような真似をさせられている、とっても可哀想な妻で、何てこと言う夫だ!と憤慨するはずですが、佐知には可哀想と言う言葉は似合いません。大谷は妻の得体の知れない器の大きさに、怖れを抱いていたのかも。それは今は自分に善として向いていますが、いつ悪になってしまうかわからないと思っているのかも。

大谷は佐知がいるので、「安心して浮気」しているのでしょう。いつでも自分には帰れる家があるのですから。心中未遂の相手秋子(広末涼子)は、勝ち誇ったような目で佐知を観ます。それは「私が最後の女に選ばれたのよ」という意味なのでしょうが、大谷にとっては、佐知以外の女性なら、誰でもよかったのだと思います。彼にとっては、佐知こそが「生」であって、自分が死んでも、生きていて欲しい女性であったのだと思います。

原作を読んだ時も、佐知が子供をおぶる姿が目に焼きつくほど出てきて、それはこの作品もいっしょです。なのに驚くほど子供の存在感が希薄なところも一緒。子供がいようがいまいが、夫と妻は父と母以前に、男と女でありたいという、太宰の心の表れのように感じました。子供にもらったサクランボを夫婦で食べるラストには、「桜桃」の出だし、「子供より、親が大事と思いたい」という強がりの文章が浮かびました。

松たか子が絶品。楚々として愛らしいのに、豪気で大胆な佐知を、おっとりとしてユーモアたっぷりに演じています。そんな彼女ですから、「夫に心中された妻は、それからどうやって生きればいいの?」と涙ぐむシーンや、パンパンから真っ赤な口紅を買うシーンが、本当に切なくて。私が苦手な浅野も相変わらず大根ですが、自分ばかりが可愛い大谷を演じて、今回はそこそこでした。嫣然とした広末にもちょっと感激しましたが、考えれば彼女、もう30なんですよね。

「人非人でいいのよ」と、温かく夫を包む佐知。大谷に太宰を重ねると、本当に妻にとってはこれ以降も「ひとでなし」ですが、太宰は佐知に妻の理想を見出していたかも知れません。


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