ケイケイの映画日記
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2007年09月11日(火) |
「人が人を愛することのどうしようもなさ」 |
昨日千日前国際シネマで観てきました。この作品は石井隆監督久々の「土屋名美」ものということで、興味が湧いていました。が、主演が喜多嶋舞ということで、少々二の足を踏んでいました。どうも女優としてもタレントとしても中途半端で、美少女タレントのなれの果てという思いを抱いていたからです。大竹しのぶや余貴美子が演じた役を彼女では、少々荷が重いと思ったからです。しかしこの喜多嶋舞が予想を覆す大熱演で、裸はおろか、心や内臓までさらけだそうかというほどの勢いで、大変感心しました。430席と、古いけど老舗劇場は平日2時だというのに、彼女のエロ見たさの(多分)男性客で、驚くなかれ6割ほど埋まっていました。女性なんて20人もいたかなぁ?しかしこの作品は、卑猥なシーンが満載なのに、まぎれもない女性向け映画だと私は思います。
元アイドルで人気女優の土屋名美(喜多嶋)。夫で15歳年上の俳優洋介(永島敏行)は、順風満帆な妻とは反対にキャリアはジリ貧で、若い女優(美景)と浮気し、夫婦は破局寸前。そんな二人は、実生活を彷彿させるような内容の「レフトアローン」という作品で、共演しています。浮気相手の若い女優までがその作品に出演し、立ちゆかぬ夫婦の間柄にストレスを感じた名美は、しだいに神経を病んで行きます。そんな彼女が自分を解放しようとした行動は、街角に立って客を引く娼婦となることでした。
お話は葛城(竹中直人)という記者が、名美に「レフトアローン」についてインタビューするという形式で進んでいきます。
冒頭幸せだった夫婦の営みが出てくる以外は、セックスシーンはあらん限りの痴態が繰り広げられます。映画の半分は名美は裸でしょうか?どんなに男の精を貪り尽くしても満足出来ない名美。それは愛する人から与えられたものではなかったからです。
その狂態は最初大変卑猥で、その後気分が悪くなるほどグロテスクです。髪を振り乱し、唇から真っ赤なルージュがはみ出し、アイメイクが流れて、一筋黒いアイラインが頬に流れる名美の顔は、まるでピエロのよう。しかし愛する人に愛されない、その名美の心を受け止めると、グロテスクの奥の壮絶な哀しみに心が揺さぶられます。
名美の愛する人は夫です。それも結婚10年、今はやさぐれて不甲斐無い、浮気相手の女を夫婦のベッドに引きずり込み、その姿をビデオで撮ってやるせなさを発散させるような、げすな男です。しかしこんな夫の愛を乞いたいという、女として真っ当でシンプルな、そしてこみ上げるような切なさが直球で胸に沁み込むと、いくら股間を広げようが、狂態をさらそうが、私は名美が淫売には見えません。これが不倫相手と言うなら、私はこんなに名美に感情移入出来なかったと思います。
この夫婦が何故不仲になったかは、語られません。役者として格差が出てきたことが原因と匂わせますが、そんなことはどうでもいいのでしょう。要はこんな男でも、名美が愛して愛してやまないということが大切なのだと思います。こういう人を愛する女、男はいるでしょう。お金をむしられ、暴力を振るわれ、口でも罵倒され。そんな相手とは付き合うなと忠告されても、やっぱり好きだ。やがて人からは謗られ馬鹿だと言われても、愛する事がやめられない。そんな「どうしようもなさ」が、「愛する」と言う感情なんだと思います。私はそんな人たちを馬鹿だと思わない。私がそんな経験がないのは、そういう人を好きになったことがない、ただそれだけなんだと思います。愛と言う感情は、計算ずくなものでは決してないはずです。
「キサラギ」で、ユースケ扮するマネージャーが、「ミキを愛していたんだ」と吐露する場面で、ジーンとした方は多いでしょう。名美のマネージャー岡野(津田寛治)もまた、名美を「どうしようもなく」愛していました。それも見返りの一切ない、無償の愛で。
冒頭のインタビューで、新しい時代の女性像を語る名美は、その話と裏腹に、古典的な男に守られ愛される自分を追いかけて迷路に入ってしまいます。彼女が迷路から抜け出せなかったのは、女優だったから。彼女は芯からの女優だったのだと、虚実ない交ぜの姿の中に滲ませます。辞めてしまえば別の人生があったろうに。女優だったが故に、迷路に入った彼女を岡部は救い出せず、いっしょに迷路でもがくことになったのかも知れません。
アイドル時代の自分を観て、名美が当時の振付をして狂ったように歌い踊るシーンがあるのですが、居た堪れない心地になります。アイドル時代の若き日に、夫の愛が欲しくて路頭を彷徨い、抱かれる男を探す自分を、彼女は想像したことはないでしょう。頑張って芸能界で花開き大衆に愛されながらも、一番愛して欲しい人は、彼女を素通りしていくのです。
「花蛇」の杉本彩の体当たり演技には感心したものの、作品の内容が薄くあまり印象に残っていません。それに勝る芝居を見せた喜多嶋舞。彼女の量感のあるバストは、子供に乳を含ませた人のそれだと、画面に出る度私は感じました。離婚し子どもは夫の元の置いてきたという彼女。どういう経緯かはわかりませんが、売れっ子というほどではなくても、彼女くらい仕事をこなしていれば、子どもは育てられたと思います。この役は、家に帰れば子供のいる環境では、絶対無理な作品です。子供を手放しその痛みに耐えて、このような大熱演を見せる彼女は、まさに女優の本懐を遂げた心地なのではないでしょうか?
彼女の母内藤洋子は、「私は主婦が天職だ」という家庭的な人だと聞きます。離婚し子供を手放し、このような役を演じる娘には、さぞ複雑な気持ちでしょう。しかし輝くばかりの頃に引退した母といつも比較される娘は、さぞ辛かったのではないでしょうか?どうぞ女優の先輩として母として、この娘を見守って欲しいと思います。
それは監督だって同じこと。杉本彩や喜多嶋舞が「丸裸」になったのは、監督が「石井隆」だったから。この監督ならば、決して世間は自分の事を「裸女優」とは呼ばないと、全幅の信頼を寄せていたからだと思います。そんな彼女たちの監督を「愛する」心に応えるような作品を作り続けて欲しいと、同じ女性の映画ファンとして、節に望みます。
この作品を観て、あの東電OLや桐野夏生の「グロテスク」の和江を思い起こした人も多いと思います。私は女として名美のような飢餓感は持ったことがありません。思えば夫が私を粗略に扱ったとしても、この人は心の底では私を愛しているのだという自負がありました。それは私の勘違いだったとしても、夫にはそう妻に感じさせるだけのものがありました。よくも私のような租雑な女をと思うと、夫には本当に感謝したい気持ちになります。何故なら女性ならみんな、名美に陥る可能性があると思うからです。
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