ケイケイの映画日記
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2007年04月16日(月) 「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」


イラストレイター、コラムニストなど、マルチに活躍するリリー・フランキーの原作がベストセラーになった作品の映画化。とても楽しみにしていた作品なので、初日に観て来ました。だって私も三人の息子のオカン、そして実母をガンで亡くしているからです。そんな背景があるせいか、後半はとにかく泣けて泣けて。内容からいくらでもあざとく出来るでしょうが、過剰な演出のない品の良い作品で、私はとても気に入りました。原作はとめさんからお借りしていますが、どうしても原作と比較してしまい、映画として楽しめないので、今は未読です。

1960年代後半。中川雅也(ボク)(青年時オダギリジョー)は、オトン(小林薫)に愛想を付かしたオカン(内田也哉子・樹木希林)に連れられ、小倉からオカンの実家のある筑豊へ帰ります。オカンの女で一つで育った雅也は、高校は大分、大学は東京へ。それから数年、何とか生活出来るようになった雅也は、今まで苦労をかけたオカンを東京へ呼び一緒に暮らし始めます。いつまでも平穏な毎日が続くと思っていた時、オカンのガンが転移しているのがわかります。

ラストは皆さんご存知なので、今回はネタバレです。原作者のフランキー1963年、脚本の松尾スズキ1962年、監督の松岡錠司1961年と、ちょうど1961年生まれの私とは同世代です。片田舎の筑豊と都会の大阪の違いはあれ、時代の空気は共有していたので、流行っていた歌謡曲、走っている自動車やファッションなど、行った事もない筑豊が懐かしく感じられます。それは筑豊を懐かしんでいるのではなく、私が時代を懐かしんでいるのでしょう。

前半の高校卒業までは樹木希林の実娘である内田也哉子が、オカンを演じています。どれだけ二人して肩寄せ合って頑張ったのか、描いているかと思いきや、意外なほど母子密着の描写は少ないです。どこにでもある仲の良い母と息子。暑苦しさや閉塞感は全然ありません。ただ父親がいないだけ。決して豊かではありませんが、さりとて貧しさを前面に出すでもなく、ユーモラスに日常が描かれます。それは祖母、叔母、近所の人などたくさんの人が二人の間を出たり入ったり、風通しの良い環境が、二人を精神的に孤立させなかったからでしょう。そんな中たった一度、オカンに浮いた話があった時、必死で自分を追う息子を優先したオカンが、とても印象に残りました。オカンに激しく共感してしまう私。

この作品を観た日、たまたま用事があって原作を読んでいる義妹に電話したのですが、彼女いわく「あのオカンは、息子を溺愛してたやんか。」という印象を受けたそう。しかし私は、この映画からは息子を溺愛するオカン、という印象は受けませんでした。

雅也が自堕落な生活を送り、大学を卒業できそうにないと連絡を受けた時も、「何であんた?何でやろねぇ?」と、困っているのに、なんとものほほんとした対応をするオカンに、私はびっくり。普通なら「どんな思いで私があんたを育ててきたと思ってんの!」の罵声の一つも浴びせるところです。そしてまた一年、お金を工面して息子を卒業させるオカンからは、出来の悪い息子を溺愛するのではなく、息子のためにという無償の愛を感じるのです。それには「時々オトン」の存在が大きいのだと思います。

養育費も多分出していないようなオトンで、雅也の「この人以上に自由な人をボクは知らない」の独白が示すよう、一般的な良き夫・父からかけ離れた人だったはずなのに、何故か二人からオトンの罵りは聞かれません。それどころか幼い時は夏休み毎、中学以降もオトンと二人の関係は細々続き、結局離婚もしないまま。とてもとても不思議な関係。しかしオトンが東京まで見舞いに来ると聞くと、自分の身だしなみに気を使う彼女を観て、ハッとしました。

オカンはオトンが好きなのです。オトンだってわざわざ九州から死期の間近い妻を見舞う情もある。思うに、この規格外の夫の側に居ては、遠からず夫を憎んでしまう、それがいやでオカンは実家に帰ってしまったんではないでしょうか?オカンは夫に添えなかった分、オトンの分まで雅也に愛を注いだのではなかったか?それが執着や依存の愛ではなく、正しい母としての愛を息子に注いだ秘密ではなかったかと、感じました。

東京で雅也と暮らすようになると、自慢の手料理と母性とで、たちまちま息子の友人たちと仲良くなっていくオカン。母といえば、やはりおいしい御飯なのですね。この描写には、東京は地方から来た人が多いのだろうと感じました。

東京タワーが見えるベッドからの闘病から死までの描写は、本当にありふれた、親子の今生の別れを淡々と静かに描いているだけなのですが、とにかく泣けます。死期の近い親を看病するのは、子供にとって本当に辛いものがあります。しかし辛いのだけれど、死ぬという実感もありません。覚悟はとうに出来ているのに、もしかして奇跡が起こり治るのじゃないか。だって私のお母ちゃんなんだもの。心の片隅にその思いを抱きながら、雅也もオカンを見舞っているのです。

臨終のオカンの髪を撫で「よう頑張った」と泣き、オカンの遺体に添い寝し、葬儀では喪主の挨拶も出来ないほど泣き崩れる雅也。オカンは「私は結婚には失敗したが、あなたのような優しい息子を持って幸せだった」の手紙を残しますが、母の死にこれほど号泣する雅也も、可哀想ではなくやはり幸せなのです。私は大なり小なり男の人はマザコンだと思っています。それでいいと思っています。ありったけの愛情を私に示す幼い息子たちを、私が夢中で愛した育てていた昔、ふと母親のいない男の子とは、何と可哀想なのだろうかと思いました。父は幼い時に実母を亡くしています。その思いが、破天荒で嫌いだった父を理解させてもくれました。私が何の見返りも期待せず、誰かのために喜んで生きたのは、後にも先にもこの子たちだけです(ごめんよ夫)。オカンだって、喜んで雅也のために生きたのでしょう。だから申し訳なかったとは、思わなくていいのよ。

キャストは皆とても良かったです。内田也哉子は、決して上手くはないですが、明るくとぼけた雰囲気と苦労の滲まない品の良さが、オカンの技量の大きさを表していて、存在感がありました。樹木希林は、自分の境遇と似たオカンを、いつも通りの自然体な好演で涙を誘います。思えばこの人は怪女優に位地する人だったのに、今や出て来るだけで画面が上等に観えます。オダギリジョーも熱演する場面も少ない作品でしたが、良きマザコン息子ぶりに泣かせてもらいました。一番秀逸だったのは、オトンの小林薫。彼一人だけ最初から交替せずに演じていますが、理解されにくい愛すべきオトンの魅力を演じて、とても説得力があります。この人は不思議な人で、もっさりしているのに50代半ばの今も、若い子も蹴散らす男としての魅力があって、私は好きな俳優です。

奇しくもこの作品を観た14日は、長男の23歳の誕生日。当日は友人に祝ってもらうとかで、我が家でのお祝いは一日遅れになりました。私は長男を早くに生んだので、日頃は「若すぎて可愛げがない」と悪態つかれ、こちらも「あんたが50歳の時、やっとお母さん72やで。末は老々介護やな」と憎まれ口で返す私ですが、この作品を観て里心がついたのか、この子のお誕生日に私が鯛の御頭つきを焼いて、お赤飯を炊くのはいつまでかしら?と思ってしまいました。でもいつまでも私がお赤飯炊いているのは、あんまり幸せじゃないのよね。オトンの言う、「男は若い時に家を出た方がええ」は、多分本当だと思います。


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