ケイケイの映画日記
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2005年10月13日(木) 「蝉しぐれ」

まさかこんなはずでは・・・。今年の初夏「阿修羅城の瞳」を観て染五郎にノックダウンした私。作品の方はバカだのチョンだの(そこまでひどくないか)散々な言われ方をしていましたが、染五郎のおかげで私にはほとんど問題なく楽しめ、何と今年唯一2回も観てしまいました。なので評判も上々のこの作品なら、染様主演ということもあって、文句など何も出ないと思っていました。わかっているのです、何故文句があるか。藤沢周平の原作を夏に読んでしまったのです。映画の前のほんの予習のつもりが、これほど心打たれる小説とは思っていませんでした。それなのに映画は私の感激したところが微妙どころか、ピンポイント攻撃でほとんど脚本からはぶかれています・・・。映画と原作は別物、比べるのは不毛というもの。わかっちゃいるけど、あぁ!今回原作との比較になるので、少々ネタバレです。

東北地方の小藩である海坂藩。牧文四郎(少年時代石田卓也のち市川染五郎)は、下級武士ながら人徳のある父助左衛門(緒形拳)、母登世(原田美枝子)の元、勉学に剣術に励む日々を送る一方、隣家の娘ふく(少女時代佐津川愛美のち木村佳乃)と、お互い淡い恋心を抱きあっていました。そんなある日、父が藩の家督争いの騒動に巻き込まれ、汚名を着せられ切腹。母と二人、世間の冷たい目の中を生きる文四郎。その上心の支えであるふくは、藩主の下女として江戸へ奉公に行ってしまいます。数年後青年となった文四郎に家老里村からお役目に戻すとの沙汰が。しかしこれには父の敵である里村の陰謀が隠されていました。

前半長い時間をさいて、文四郎とふくの淡い恋心、友人の逸平、与之助との友情など、父が切腹するまでは丁寧に描いており、明朗で快活な少年が、父の汚名のため、これからの長く暗く辛い日々を予感させるのを、長尺の原作を上手くまとめていました。子供時代を演じる二人は、石田卓也など棒読みせりふでしたが、容姿やしぐさなど清潔感があり、男としての強さの芽生えかける少年期を感じさせ、存在感がありました。それにも増して魅力的だったのは佐津川愛美。大きな目にとても力があり、決して器用に演じていたわけではないですが、ふくの芯の強さと賢さ一途さ、文四郎を思う気持ちの強さが痛いほど伝わってきます。二人して助左衛門の遺体を荷車で運ぶ場面は、健気さ純粋さ、そして心のたくましさが感じられ、この作品の中で一番秀逸に感じました。

しかし!この前半に唯一最大の脚色の欠陥が!私の見誤りでなければ、文四郎と助左衛門は実の親子として描かれていました。原作では文四郎は登世の兄の子で、幼い時養子にもらわれています。原作では厳格な登世より、穏やかな人格者の助左衛門を文四郎は慕っており尊敬もしています。血のつながりを越えた文四郎の思いに、文章や映像で語る以上の助左衛門の人物像が浮かび上がります。また囚われた助左衛門に会うのは家から一人という決まりに、妻の登世ではなく、跡取りの文四郎が会いに行くということに、昔の人の家に対する思い、それを理解して支える妻の美徳を感じるのです。原作でのち文四郎が楽しいはずの青春時代を父の汚名のため辛酸を舐めながら、自暴自棄にならずじっと耐え、家を絶やさぬよう自重する姿は、幼いながら男としての器の大きさと厳しさを感じさせ、本当に心打たれました。大げさでなく、原作では私は耐えて家を守る文四郎の姿に、日本人の強さと美しさを見た思いでした。こういう形でその国の人の心栄えを描くのは、決して他の国では見られないと思います。だから実子と養子では雲泥の差なのです。

後半文四郎が青年となるところから、私は不満が続出。上に書いた青春期の文四郎の苦労の描写が希薄。あれだけではいかに彼が家を守るため大変であったかが伝わりにくいです。お役回復までの文四郎の心の支えは、剣の腕を磨くことであったはず。その場面もなく生前の助左衛門の「お前は道場で一番筋がいいそうだな。矢田さんから聞いたぞ。」のセリフだけです。その矢田や矢田の妻も、原作では本筋ではありませんが、枝葉の部分として物語の陰影を深める大切な登場人物でした。あれくらいの役割なら、全部切ってしまった方が良かったかも。

大立ち回りが一箇所ありますが、それもなんだかなぁ。秘刀・むらさめを伝授された剣豪なんですよ、文四郎は。むらさめのむも出てこん!立ち回り場面は血しぶきがかなり上がりますが、これも作風と合っていると思いませんでした。剣豪と言う感じもせず。数箇所ちょこちょこ出てくる犬飼兵馬は、原作ではやはり印象に残る人物ですが、映画では、はぁ〜〜?というくらい、どんな人かわかりません。文四郎と対決するシーンでは、原作ファンなのでしょう、後ろのご婦人が盛んに「出た〜出た〜」を10回くらい仰り、期待の一番勝負が観られると思いきや、これもへっ???というくらいあっさり終わりました。ここは映画なら原作以上に膨らませて描いてもいい部分だと思うのですが。

私が最もがっかりしたのは、画像に貼り付けているシーンの時、ふくが初恋の文四郎に抱きつくところです。原作では久しぶりの再会の時、今は藩主の側室となり子まで産んだふくは、一貫して「文四郎殿」と呼び続けるのに、このシーンの時、たった一回「文四郎さん」と昔のふくに戻り彼を呼ぶ時、胸がかきむしられるほど、私は切なく思ったものです。ふくは下級武士とはいえ武家の娘。文四郎と同じく、自分の運命を甘んじて受け、そして流されまいと必死に踏ん張った女性です。そんな賢い女性が自分の立場もわきまえず、昔の恋しい人に自分から抱きつくようなはしたない真似は、私はしないと思います。木村佳乃の風情なら、原作通りで充分だったと思います。

その他お笑いから今田耕司とふかわりょうが、それぞれ文四郎の幼馴染として影になり日向になり彼を励ましますが、これも彼らをキャスティングしたのは意味がなかったような。特に今田はお笑いを取る役でもないのに、そういう役回りを着せられ、場の雰囲気を壊してしまい、演じる彼が可哀想でした。若い頃の明石屋さんまのような役どころなら、彼の真価が発揮されると思います。

後半ダダーと私的には尻すぼみ。期待の恋しい染様も、「阿修羅城の瞳」ほどには魅力がなく、無難な演技だけの印象です(でも萌えは続行中)。この作品には清貧や清廉という、とても美しい日本語がよく引用されます。清貧や清廉を保つには、自分を見失わない強靭な心が必要なはず。攻撃的ではなく、受身にそれを表現し続けたからこそ、後の文四郎の家老に対する行動にカタルシスを覚えるはずが、その過程の描きこみ不足で、全体に平坦な印象が残りました。

自然の穏やかさ厳しさ、懐の深さを映す風景は絶品でした。全体的にはぎりぎり及第点かというところ。これは原作を読んでしまったからなんでしょうか?映画単体の人の観方の方が、私より的を射ているかも知れません。う〜ん、私もまだまだ修行が足らんなぁ。


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